読書と私。


  『極北』マーセル・セロー、村上春樹訳。中央公論社。2012年。


  読み通しました。面白かったです^_^


  マーセル・セローは高名な旅行作家ポール・セローの次男で、ウガンダに生まれてシンガポールに移り、英国に戻りケンブリッジ大学に入り、イエール大学に留学し、ソビエトと東ヨーロッパを中心とした国際関係を勉強した。テレビに出演し、ロシア関係や環境問題のホストを勤めた。

  彼自身のイントロダクションによれば、彼がこの小説を思いついたのは、2000年の12月、ウクライナ旅行の時である。

  彼はその時、チェチェンの首都を現地取材し、まだ混乱の中にあるアルバイジャンとウズベキスタンにも赴いた。チェルノブイリ近郊に住むガリーナという名の女性を取材した。

  ガリーナは原発事故現場から半径三十キロ圏内で、勝手に故郷に戻り、勝手に農業を営んでいた。牛や鶏を飼い、放射能に汚染された土地でキャベツを育てていた。

  

  物語の主人公も豪胆で自立しており、有能で惚れ惚れとする。実際的で具体的でかっこいい。

  反面、弱さもあり感受性も強い。


  残酷な場面もあり、感傷的な場面もある。


  「生き抜く」ために語り、残していく言葉なので、非常に強い。


  自由であること。自立すること


  主人公は不自由な環境に置かれ蹂躙され傷を負わされるので、彼女自身の美しさや、それを守る勇気・自尊心みたいなものを見せつけられます。

  自由とか美しさなんていうのは随分と抽象的だけれど。 

  …物語は随分と具体的的に進んでゆく。

   

  生きることは、戦い。

  優しさや弱さもあるけど、それは文明や文化なのです。文明や文化を守るために、生活があって。生活は戦いなのです。

  生活は文化に憧れ、文化は生活に対し無益なのです。

  強い彼女は、物語の最初から最後まで変わらず、文化や感傷に抗いがたく惹かれていました。

  生きる意味や生きる目的となっていた。


 調律の狂ったピアノラ

  蔵にしまわれ読まれることのない書物

  墜落する飛行機

  正しい父親

  死んでしまった赤ん坊


  憧れて、大事にしまわれている無用の美しい思い出。

    生きていくために切り捨ててしまったらどれほど楽だろう。

    

   主人公はそれらを捨てられない。

  私は捨てられない主人公を愛する。


    捨てられないのがヒトだよな、とすごい勢いで迫る物語です。

  退屈を紛らわす読書ではなく、極限を生きる人が読んでも何か思うことがありそうな一冊。

  

  無意味なものに意味を持たせるような

  弱さを強みに変えるような

  ミラクルな一冊。


  こういう読書体験は本当に貴重だと思う。


  世の中に本はたくさん溢れているけれど

  自分に正しいタイミングで正しい本に巡りあえたことを感謝したい。


  こういう貴重な読書体験は全ての人に訪れてほしいと思うけど、その正しいタイミングと本は巡り合わせだと思うので、いつそのタイミングが訪れても良いように慎重にコンディションを整えておくべきだと思う。

    




ハルキにまつわるエトセトラ。

  
  ハルキにまつわるエトセトラ

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  はてなブログでハルキさんが読者の質問に答えていて、気が向く度に読んでます。
  

  (ハルキさんを好きか嫌いか、と論じたり
  文学的か否か、と論じたり
  よくあるけど)
  批評と自分の創作活動は別、、、クールに割り切っているのに、ファンの質問にいちいち答えているので好感を持っている。
  

  私の場合「すごくファンという自覚はないけど、結構ファンなのかもしれない、もしかして⁈」という立ち位置です。

  文学ではとかく、何を、どのように語るか?問われる。内容と手法。
  ハルキさんはよく手法ばかりで内容が…、と批判されがちだけど、内容もアルといえばアル。ナイといえばナイ。
  
  フィツジェラルドのファンでありハルキのファンである人もあれば、フィツジェラルドのファンではないけどハルキのファンもおり、また反対にフィツジェラルドのファンではあるけどハルキのファンではない人もいる。また両作家ともファンではない、という人もいる。
  (そういうものなんじゃないかな)
  …と思うのが普通なんだと思う。

  ↑こういう(そういうものなんじゃないかな)は、ハルキ作品において決して裏切らない。
  怒濤の展開があったとしても主人公のテンションは落ちついていて、(そういうもの)を受け入れるので、本を読むようなヒトならば最低限のラインとして、すぐさま物語に入れるのではないだろうか。主人公「僕」が(そういうもの)を受け入れたなら、読者はそれを受け入れなられないのだとすれば、もうその本を閉じるしかない。
  読めるということは、それをわかった気になるものなのです。
  そういう仕組みなのかなー、と思います。

  そしてハルキさんは「技巧の人」に見えて実は「内臓の人」なのだ。(内容はではない)
  肌感覚が冴えているのか、欲を扱うのが上手いのか、目が良いのか耳が良いのか、詩人的な領域も絶えず発揮している。わからないコトはわからないとして突き詰めない。触感がわかるほど具体的に、周辺を上手に切り落とす。
  二度と読まないだろうと思う作品もあれば、何回でも読みなおすだろうと思う作品がある。それは単に材料の違いであって、切り落としの技巧はハルキさんらしさとして歴然として存在する。

  フィツジェラルドのような唯一無二の文学ではないかもしれない。
  どちらかと言えばありふれた、もっと些細で個人的な文学的経験の〈集積〉なのではないか、と思う。
  その〈集積〉はレイモンド・カーヴァーほど鮮やかではないかもしれない。
  (もっともっとささやかなこと)に対して、意識が向いているのかもしれない。
  

  内田樹さんはハルキさんのファンのようだ。内田さんもツルツルとよく言葉を操るけど、同じようにハルキさんもツルツルと言葉を操っているのではないか?
  内田さんが言葉によって思考するように。
  ハルキさんも言葉によって感じているのではないだろうか。



  ☆


  私の場合。
  すごくファンになってしまうと個々の作品の良し悪しはわからなくなる。

  未だに読んでいないハルキ作品はあるけど、日常のテンションの延長で読めるので(いつでも読める)と思っている。
  すごくファンなら新刊が出たらいそいそと読むところだけど。
  
  安西水丸さんはすごくファンなのでいそいそと読んでいる^_^

  最近はいしいしんじさんのエッセイもファンでいそいそと読んでいる^_^

  今、ハルキさん訳の『極北』マーセル・セロー、中央公論社、2012年。を読んでいる。おもしろい。

  ハルキさんは才能があると思うけど、うまいこと言えない。
  
  色川武大の短編集を夢中で読んだあとなので、尚更うまいこと言えない。

  ハルキ作品のどれが一番好きか?一番印象に残っているのはどの作品か?自分に影響を与えたか?と問われたとして、
どれもそんなに好きではないような気がする。どれも私に影響を与えてはいないような気がする。
  でも「うまく言えないけど、そういうことってあるよね」という体験の集積のように感じる。

  このブログのタイトルspring has comeは、『ランゲルハンス島の午後』から来てます^_^

  どうだ。

  (どうだって言われても……)




ある日の桜と梅。


  昨日の話。
  朝寝坊して8時半。晴れて風もなかったので、庭の桜の木を剪定した。
  隣のよっちゃんに3m三脚を借りる。

  よっちゃん(70オーバーの男性)は、コンバインやその他色々を所有し米を作っている。息子が2人いるが、同居はしていない。収穫時期だけ手伝いに来るようだ。

  よっちゃんから「ワシがやっちゃろうか?」と申し出を受けるも、
  「いえいえ。私、自分でやってみたいんです^_^」と断る。
  「お宅のはなぁー、カタチが膨らんでるから頭の方を止めんにゃあいけん。伸びすぎ。モトから切るとええよ」
  、、、、桜って、のびのびと枝を伸ばすものだと思うけど…^_^
  ありのままの自然のカタチを少し整える程度は弱剪定。それはそう。
  
  よっちゃんちの庭木は丸太のように真っ直ぐに、小さく小さくなっている。強強強・強剪定。

  (松の枝を整えるのは勿論職人芸。春と冬と年二回整える。松の木一本に一人がかかりきりになるのが普通。松の手入れはお金がかかります)
 
  桜木剪定、手順。
  まず
  1. 内側に伸びた枝を落とす
  2. 平行に重なっている枝を落とす
  3. 株根元から出ている枝を落とす
  その後
  1. 勢いのある元気な枝を落とす
  2. 太陽側が伸びやすいので、太陽側を強めに落とす
 あとは樹形を整えるだけ。

  剪定は楽しい。
  考えなくていいからか、スッキリするのが気持ちいいのか、変なアドレナリンが出てきてハイになる。
  枝を落とすたびに「おっしゃー!」と言ってた気がする。一度木から落ちたけど大丈夫だった、ヒトは夢中に働いている時は何かに護られているのかもしれない。
  勢いのある太い枝を間引くと、木の雰囲気が変わる。
  美容師さんがお客さんをイメチェンさせ、かつ似合う髪型に変えていくような快感ですかね?
  余計な部分を落としていけば、素の良い部分が際立ってくる。

  「おっしゃー!」「おっしゃー!」と調子に乗って切っていたら、なんだか桜が寒々しくなってきた。
  「?」
  「あれ?違う枝を落としたかな?」

  木に登っている時はどの枝だったか迷うことがあるので、たまに降りて離れた位置で木を眺めます。

  うん。
  枝落とし過ぎ。
  我知らず、強め強めな剪定になっていた。
  よっちゃんの評価は去年より良いに違いない。

  桜の剪定時期は本来は冬
  私が切り落とした枝には、小さな小さな花芽がたくさんついていた

  

  ☆

  こちらは梅。山口市の古熊神社です^_^
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  梅の香りはしたけれど、まだ満開ではありません。

  満開よりも開き始めの梅が好き
  
  ^_^


千本ノック。

  狂った時計のような私の直属の先輩、、、、無責任な発言を繰り返して、高圧的で反抗的な態度をとるものだから、以前から上司の評価は低かった。
  「なんじゃこの人⁈」と生理的に驚くし、優先順位が無茶苦茶だし、話ができないし、共に仕事をするのに最大のストレスだった。
  不愉快だし理解できないし時間かかるし、結局正解なのかどうかわからないから不安だし、責任をなすりつけるし。
  人としても好きになれない。ケチで見栄っ張り、表裏があって、意地悪。
  
  大人げなく私にトゲトゲしく言葉を投げるので、周りが眉を顰めている。

  人の好き嫌いは関係なく、仕事は仕事。
  相性が悪いでは片付けられないから、私はなるべく「落ちついて」話そうと心がける。
  「ちょっと整理させてください」と何を言おうとしているのか正す。それでも彼女はゴールなんてちっとも見えてなくて、5センチ先のコトしか見ていない。

  なので、やった作業だけ結果確認する。次にやる作業だけ指示する。
  
  それでも「何してんの?」と思う事がある。「何がしたいの?」

  
  このたびワタクシ正社員になることになりまして。至らぬことばかりですが。まだ身分はパートなのですが。
  彼女を差し置いて担当者会議などに参加している。
  本所の人も彼女を通さずに私に電話をかけてくるようになった。

  私は担当者として彼女にも連絡事項注意事項を落とす。伝えるのが責任だし義務だし。彼女は私にまで情報は落とさなかったけれど(伝えられない事ばかりだった)
  
  んー、でも。

  なんか立場が逆転した今の方が、この人幸せそうだな、と思う。
  多分、見栄っ張りだからこういう風にしか話せないのだろうけど。完璧主義というよりアゲアシトリなだけ。筋立てて計画したり、指示出したり、説明したりできないのだ。
  皆で協力するのも苦手。マンツーマンで指示するしかない。
  ある意味〈見えない・聞こえない人〉なのでハンディキャップの扱い。
  
  多分これからもっと、先輩ヅラして「自分でやって」と私に仕事を投げてくるだろう。自分がやりきれない仕事を押し付けてくるだろう。

  でもできないまま抱えこまれるより、よっぽど良い。

  私自身は、頭の上に乗っていた漬物石がやっと取り除いてもらえたような解放感!!である^_^
  いいよいいよ、どんどん投げてごらん。
  
  千本ノックしてるみたい^_^

  
  お互いの幸福のために
  自分を鍛えるために
  千本ノックを思う存分にやりたい心境であります。。。



「春」に似ている。

  寒かった日々が嘘のように
  空気がゆるんでいる

  花木もいつのまにか色をつけ、ほぼ満開。

  梅か桃か、ロウバイかマンサクか、、、
  通り過ぎる車の窓から、色を探して目がウロウロする。

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  空気に花の匂いが混ざるといけない。
  大きな湯船につかったように身体がゆるんでしまう。


  春はスピッツの曲が似合う。
  
  春の花の匂いは、卒業と入学の思い出を総まとめで連れてくる。
  それぞれの時代の「春」の空気を連れてくる。
  
  過去の出会いと別れの思い出と、今はどうしているのだろうかという想像と、将来また会えるだろうかという期待で、いっぱいになる。
  幼かった自分と今の自分と未来の自分と、桜の中で、梅の中で出会うような気にもなる。

  でも「その春の」空気だけはすごく鮮烈なのに、肝心の細部はぼんやりとしてしまう。
  夢の中のようにぼんやりとしか思い出せない。本当のようでもあるし、夢のようでもある。思い出そうとすればするほど、イメージが不安定になるようだ。
  「今の春」の空気の中で、私は少し哀しくなる。

  思い出せないのは君だけ   君の声の感じ        思い出したいのは君だけ

  

  恋のはじまりに、気になる相手を無意識に目で追い、耳が追ってしまうのは

  相手のことを(思い出せない)からだと思う。

  まっすぐに見るのは恥ずかしいし、

  憶えておきたくて、

  憶えておこうとまっすぐに見ていても、その瞬間が精一杯で、どう記憶していいのか整理がつかないのだと思う。


  精一杯に感覚を開いているのに、上手く記憶できないって

  なんだかすごく「春」に似ているなと思う

  

葛根湯さえあれば、、、

腹痛と頭痛なら、
比べるアレもないが
頭痛の方がマシである。

私は肩こりもあって、なんとなく頭が痛いという状況はよくある。
肩こりなのか、眼精疲労なのか、猫背だからか、首も背中も頭も全て、揉みしだいてほしい、と思うことがよくある。
そんな時にはサッサと寝るし、
葛根湯を飲む(粉末)
徳用サイズで葛根湯を常備している。

比べて腹痛は、耐え難い。
救急車を呼びそうな勢いである。

私は過去に救急車に乗った記憶は二回程ある(記憶にない場合もあるかもしれない)
死んでしまう、、、と思いつめる程、痛みに耐えられない。

(じっとしてたら治るかなぁ)と転がってみる。
胃なのか腸なのか、位置を想像する。
想像できないと(寄生虫か)(悪い病いか)と思いつめる。そしてドンドン痛くなる。
松崎しげるの歌を歌う「美しい人生よ〜、限りないよろこびよ〜」
島倉千代子の歌を歌う「人生いろいろ、男もいろいろ、女だっていろいろ咲き乱れるの〜」
過去には。救急病棟で恥ずかしい経験もしている(オナラがたまっていた)
死んでしまうかもしれないと思いながら、そのまま眠る。

このまま死んでしまうかもしれない、と思いながら。目覚めたらラッキー、と思いながら。痛みに耐えながら、孤独に眠る。自分以外の全ての人は幸福で、自分だけが理不尽に不幸だ…と思いながら転がっている。このまま眠ってしまおう…と。

下痢とか便秘とか生理ならね。原因がわかるので安心して眠るのですけど。

恥ずかしさと自分の命を天秤にかけて、痛いよー痛いよー痛いよー、とさらに妄想して(この下痢は悪い病いなのではないか…)と思いつめながら、眠ります。

闘病記は怖いのであまり読みません。

ただ、ツライ時こそユーモアとかセンスが必要なのだろうなと思います。

(あ、風邪かも!→葛根湯!)

オールマイティに(眠ってしまおう…)と覚悟して転がっている私。痛みは人をダメにするなぁ、と思います。

だって仕方ないじゃん。具合悪いんだもん。死んじゃうかもしれないもん。

…私みたいな人間は、腹痛に対してあまりにも無力だ。

  あまりにも簡単に(今までありがとう。こんな私でゴメンネ)と人生を放棄する自分。

  弱過ぎ…。


  そして私みたいに痛みに弱い人間は、その都度騒ぐので実際に黙って死んでいく場合は少ないと思う。





他人の協力に感動したこと。

  手順を勘違いしていた仕事があって。
  たまたま課長が居合わせたので質問してみたら判明した事ではあるけれど。
  課長も質問レベルで「オイオイ大丈夫か?」と思っただろうし、私も回答を聞けば聞くほど「嘘やろー!」と思った。
  思っていた以上にリスク責任を負わされて、期日が迫っているにも関わらず、時間も手間もかかる仕事だった。。。。

  その仕事の責任者は(私、ただ1人)ではなく、私の監督者2名も同じ研修を受けており〈仕事の把握はしておくべき・監督責任あり〉ではあったのだけど。
  担当が私と決められたものではなく、監督者が「よくわからん。研修内容もおぼえてない」と私に投げたものだった。つまり担当者1人では、実務量が期限内で収まらないものだった。

  そうは言っても期日があり報告が義務付けられているので、半ば諦めつつ、自分なりにやるだけやって報告するつもりだった。
  
  意外と言ってはアレだけど。
  私自身、本気で「間に合わない」と思っていたのに、間に合いそうだ^_^
  無関係に帰宅するだろうと思っていた職員さん達が残業して手伝ってくれた!!!

  頼み方すらわからなかった。

  目上の人に頼み事をする、というやり方がわからなかった。

  専門的な事や、端末の登録上の事なんかは説明してもわからないだろうし、理解する必要もないのだと思う。
  ただ必要なモノの提出をお願いして、
  確認するべきカショを教えたら、
  難しいコトは抜きにして、
  とにかく揃えてもらえた!!!
  
  個人情報コンプライアンスの難しい世の中で、知りがたい情報を集めてもらい、信用して尽力して頂いて、本当に感謝と感激だ。

  自信を持って課長さんに報告できます^_^

  職場の担当外の人たちでも相談はするべきだなと思ったし
  地元の信頼関係にも感動したし
  なにより自発的に動いてくれる、潜在的な他人の力に感動した。

  
  正直に言えば。
  他人が動いてくれる事を期待せずに自分で動く方が楽だと考えている。
  意図を説明するのは面倒だし、言葉選びにも苦労するし。ちゃんと伝えたつもりでも相手は誤解する場合もあるし。自分で一貫してやった方が正確だし、間違いがあったとしても対処しやすい。
  よくわかってない人を使う場合、自分がやる以上の神経を使う。

  それでも。
  他人の実務のやり方をみて学ぶこともあるし、
  情報を集約する事(報告書作り)に自分は集中できるので、非常に助かった。

  仕事が半端に終わることなく、
  他人から見ても評価できる結果を残すことができたことに、感謝し感動している。

  登録上の細かい整理やら、保管管理簿やら、報告書作りやら、書類回収やら、山のように作業はあるけど、
  全体として外部に働きかけるファーストステップは私が想像した以上に理想的なカタチで終了する。

  何もかも、他人の協力のおかげである。