小林秀雄の流儀

 鑑賞という事は、一見行為を拒絶した事のように考えられるが、実はそうではないので、鑑賞とは模倣という行為の意識化し純化したものなのである。『伝統』


 ある絵に現れた真剣さが、何を意味するか問おうとして、注意力を緊張させると、印象から言葉への通常の道を、逆に言葉から知覚へと進まねばならぬ努力感が其処に生じ、殆どいつも、一種の苦痛さえ経験した。そういう時、私は恐らく画家の努力を模倣しているのだが、詩人も同じ努力をしていない筈がない。『私の人生観』


 鑑賞は決して受身に収まっていてはいけない、意識の中の、追創造だと、小林秀雄は言っています。

 鑑賞とは模倣。

 

 さらに、


 画を見るという事は、僕にとっては一つの訓練なんですよ。理論も観念も要するに一切の文学がもはや助けてはくれない、辛いある訓練の世界なんです。やれ美術評論家とか、やれ俺は展覧会にいって来たよとかいう人々とは僕は袂を分つ。画の世界では実にはっきりしているね、うまいか拙いが。人間が自然と戦う、或いは自然と取引する、その姿が実にはっきり見える。「座談」1947年


 …と、いうことです。


 好きなものを目を細めて眺め入る視線は、ものの中に自分を発見する行為かもしれないけれども、一度は惚れたものの中に自分を解放してみないことには、本当の自分もなかなか浮かびあがってこないし、実際はそこに自分はいなかったことに、何年もたってから気づくこともあるのだ。

 美術鑑賞とは、沈黙に堪える苦痛を経験することだと、小林秀雄は繰り返し述べている。