ドアをノックするのは誰だ?

 村上春樹の短編で、自分にとって100パーセントの女の子に出会うのだけど、どのように主人公にとって彼女が100パーセントなのかうまく説明できる自信がなく、言葉も交わさずすれ違うという話があって、それが私にとってすごく象徴的で忘れることができない。


男女の出会いは、本当に直感的だ。相手のことは何ひとつ知らなくても、自分にとって始まりそうな人かどうかということはわかるものだ。そしてドアをノックしてみる。こんこん。


 相手が覚悟を決めてドアを開けてくれたら、少しづつお互いを見せあって知りあって、関係を続けていく。お互いの存在意義とか、約束ごととか、尊重すべきこと優先すべきことを決めていく。依存するカップル依存しないカップル様々だが、困難や問題はいつしか起こり、共に乗り越えるか、それとも決別するか、時間とともに関係は変化していくのである。

 お互いにとって大事なことって、何なのでしょう。

 自分にとって100パーセントな相手って?


 まぁでも、ドアノックの時点ですれ違うのはかなり切ない。

 うまく説明できなくたって、カッコ悪くたっていいじゃない、しない後悔としてしまった後悔では後味が違うよ!と私は開き直っている。ドアノックしようじゃないか。


 男女間はそれでいい。

 けれど、友情が絡むとそうもいかなくなる。(友情と呼ぶにはふさわしくない感情かも。尊敬や憧れの対象でもありうる。同志とか仲間とか、そういうものを含めた、人と人との間にある感情)


「 恋人をつくるのより、友達をつくる方が難しい」言っていたのは誰であったか?


 ドアノックは友達になれそうな人にもするけど、「はぁ?」と言われる頻度は高い。

 気のある素振りは、なかなか通用しないのである。

  自分自身の勢いとタイミングで話しかけても、相手からするとタイミングが違っていたりする。


 めげてはいけない。

 私は多くの先輩や友人に大切なことを教わった。伝えてもらった。ドアが閉じたままだって、立ち尽くすだけではドアは開かない。


  待っているだけではドアは開かない。