小林秀雄を想う。

 私の左手の中指の指紋の、ちょっと人差し指側に異物が入りこんでいる。

 小さな棘。あまりに細く短いので毛抜きで抜けない。まわりの肉をぎゅーっと押しても、頭が盛りあがってこないので挟めないのである。もちろん五円玉のドーナツ部分を使っても駄目なのである。

 私は仕事中であった。気になって仕方ない。キーボードを叩いても、書類をめくっても左手の中指はアタルのである。同僚に左手を見せる。すると、裁縫道具の中から針が出された。

「ツバで先を舐めたら消毒になるから。皮一枚引っ張りあげなさい。そしたらそんなに痛くない」と言われた。

 やってみたけど、棘が刺さっている角度がわからないのだ。逆に内側にねじ込んでいるような気になってくる。もちろん痛い。ううー、とうなりながら猫背でツンツンしている私に、「ぶすーっといきなさい。ぶすーっと」と声をかける人たち。「痛いですー」

 そうこうしているうちにお客さんたちが来て私は慌てて、指の痛みどころではなくなった。働いてるうちに紛れてしまった。ホッと一息ついたら、またジンジンしてきた。気にしなければ気にならないほどの痛みなのだ。


 「あ!」と思った。

 これって何かに似てると思ったら、小林秀雄の批評の方法に似てるのかも。先生は必ず「感動」から批評をはじめた。作品を単に論じるだけではなく、作者が作品に込めた想いを読み解き、表そうとした。創造性はかなり高い。しかし先生のメッセージは普遍性を帯びる。自分個人の感動から出発し、鑑賞を繰り返し、作品の根底に何があるか考えるからだ。

 痛みは常にごく個人的なもの。どんな風に痛いのか他人に伝えることは難しい。同情してもらうほかないのだが、より正確に同情してもらうために言葉を尽くす。その個人的な刺激に気づき、感じながら対象を顕にしていく。皮一枚引っ張りあげるようにして。時にはぶすーっといく覚悟も必要。息を詰めながら、慎重に。かつ大胆で繊細な心の動きを追う。すっかりと対象が現れた時の感動といったら!よくぞ!と思う。とってもスッキリとする。

 私はこれから先、 指に刺さった小さな棘と格闘する時は必ず、小林先生の意気込みを想うことだろう。そんな気がする。