「私は歪んでいます」と宣言してみる。
私は家族に対しても友人に対しても、自分自身に対しても、つい誤魔化してしまう。正直になれない。
偽善、のつもりもないけれど。つい。
いつも楽しくありたい、良い人でありたい、助けたい、少しでも。と動いてしまう。もちろん、それができないことはある。そういう時はグズグズと考えて、次は失敗しないように、と増す増す気張る。習性のようなもの。習慣のようなもの。
偽善、のつもりもないけれど。すでに条件反射。
単純さや無邪気さや直感が、複雑な矛盾をといたりほぐしたりする。そもそも結論はあるけれど、解決はないのだ。
想いあぐねて、進めなくなる。
そういう時には、一旦戻る。わからなくなった地点まで。そこからもう一度考えてみる。
希望に満ちて無鉄砲な自分まで戻ったなら、なんでもできそうな気分になる。気分だけでも、いくらか救われる。若さに憧れるのは簡単。
少しづつ、自信をなくしていくのだろう。…それを私は誤魔化している。
本当なら、呼吸をするように、吐き出したり吸いこんだりするものだ。けれど、弱さをみせたくない。ズルさをみせたくない。嫌われたくない。上手くできなくても、堂々としていたい。
( 裏を返せば、こうなりたい、という表明になりますね、強くなりたい、正直でありたい、好かれたい。そういうことの繰り返しなのです)
そのようにすり替えて、自分も他人も誤魔化している訳です。
最近、感じていることは。
痛みを誤魔化してはいけないということ。
考えてもわからないことはたくさんある。
上手にできなくて、哀しくなったりする。
無意識に無自覚に、凝り固まって動けなくなることはたくさんある。
そこから脱するためには、まず痛みを意識すること。自分の歪みを意識すること。まずは。
それは「大人になること」「成長」でもないし、「個性」でもない。
思えば。
自分に正直な人は希少価値がある。(自己中心・ワガママという意味ではなく、あるがまま自然という意味)
自分に正直になることは、自分と自分に近しい人にしか意味はないけど。それにしたって、素晴らしいことだ。
みっともなくても、身体を伸ばし、深く息を吸い込んで、歪んだ痛みを意識しようと思っている。
ゆっくりと自分と対話。