個人的流儀。

  いつもは考えないようにしている。


 思い立ってしまった時に、自分をどう抑えたら良いかわからないから。求めてしまった場合の飢餓感は半端ない。代用は効かない。高い代金を払ったとしても、それは保障されない。失敗することだって、あるのだ。

  

  それは、桃。

  桃が食べたくなったなら、どうする?


 あくまで生の桃。缶詰は別物だ。


 季節は限定されます。今だけ。今だけ!今だけ!

 

 一個二百円、二百五十円、コンビニだとセールで百円、(嘘だろうと思って買ってみたら嘘だった。当たりもあるのかもしれないけど)うーん、わからない。触ったら腐るのかしら。無闇に触れない。うーん、うーん。もやしに換算してはいけない。もやしだったら、何袋分の桃?

  もしも自分が桃農家だったなら、かなり繊細だったろう。

  さくらんぼ農家やいちご農家なら、かなりつまみぐいをするだろう。おやつに事欠かない。

  高級果実のメロンやマンゴーにしたって、そこまで繊細に世話しない気がする。それなりに皮に守られている。比べて桃は、産毛のはえた桃の皮は赤ん坊の尻のようだ。水遣り、温度、日照時間、保存方法、いろいろあるだろうけど。強く触ったらいけない果実。繊細な果実。


福島の桃が届いた。

JA伊達みらい

ミスピーチ、透過式光センサーもも


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  すかさず冷やす。

  冷やしたらむいて食べる。とりあえず二個。

  果実は皮側が甘く、種に向かうにつれて渋くなる。

  はじめは大胆に。包丁を寝かせて大きなピースでむき始める。種周辺はピースが細かくなっていく。最後は意地汚く貧乏くさく細かく削いで、残った種をみずからしゃぶる。これは皮をむいた者の特権だ。切りはじめは種に向かって縦に包丁を入れる人もいるだろう、大きなピースを作る必要もないし、公平な切り方だ。

  でも私は不公平な切り方が好きだ。


  残った種周辺部分は、比べたら渋いけれど、捨てるのは作法に反する気がする。しゃぶるべきだ。台所で立ったまま、渋いところから頂くのが順序だ。とりあえず飢餓感を満たし、落ちつくべきだ。向き合っている桃のレベルが知れる。

(梅干しのおにぎりを作る時、箸で梅干しの肉と種を分けて、私は梅干しの種をしゃぶる。明らかにまだ残っているのだから、しゃぶる)


  改めて、皿に盛りフォークで頂く。

  のどごしが良い。この食感、この瑞々しさ、最高。

  私がむいた場合、明らかに大きなピースは最上。目で食べていく順番を決める。小さなものから順に食べれば、後味は打ち消されていくハズだ。期待は裏切らないまま持続する。なので夢中で食べる。つるんと、あっという間に食してしまう。飢えていたのだ、桃に。自分を騙し続けていた。


  最後に辿りつく、最大ピースの桃。

  

  順序を踏んだことにより最高の満足感で迎える、決して裏切らない味の、最後の余韻に浸るための、桃ピース。

  美味しくない訳ないのです。確実なのです。


  一人で頂く時にはゆっくり食べる。

  向き合って食べる人がいれば、最後のピースはさりげなく差し出す。