私という物語。

  ヒトの肌の色は違う。ヒトの瞳の色は違う。ヒトの髪の毛は違う。ヒトの顔は違う。

  何故なら、太古の昔に私たちの祖先が、環境に適合するために、機能を備えてきたから。


  光を判別する、音を聞き分ける、信号を発する、私たちは五感を発達させて、意思を確認することをおぼえた。感情は機能だ。喜怒哀楽は機能なのだ。生存するために必要な機能なのだ。


 五感で環境をはかる。現実の、様々な有様を、それぞれの機能で捉えて統合する。かりそめの、意識のようなもので、現実をパッチワークし、感情として結論づける。

  「意識」を能動的に捉える人もいれば受動的に捉える人もいる。

  また、それらはすべて、脳がみせる幻想だとする人もいる。


  でも、わかるなぁ。

  私たちは、物語が必要なのだ、生きていくために。


  共感してほしくておしゃべりを続ける。


  足を怪我して失った者は、それを語らずにはおれない。悲しみを。

  同じく足を失った者がそれに共感する。共感した気になる。いつしか小さな違いを意識しはじめる。足がないことは一緒でも、経済状態が違う、家族構成が違う、年齢が違う、性格が違う、性別が違う、住んでいるところが違う…。数限りない「違う」によって、また孤独を語り出す…。あるいは、黙る…。


  私は思う。

  もう、共感する必要はない。

  確かに痛みはそれぞれにある。共感してくれたら、嬉しいと思う。

  だけど、絶対に、傷みは共有できないのだ。


  私がいいなと思うのは、

  違うことから、はじめること。


  わかりあえないけれども、おしゃべりを続けること。


  黙ってしまったら、それまでだ。


  ヒトが子孫を残そうとするのは、自分自身を残したいから。託すのだ。

  私はこういう風に生きて、こんなものを遺した。こういうものが好きで、こんな癖がある。こんな風でした!という物語をつむいでいる。私はフィクションだ。それは魂の仕事。


  子供が残せなくても、芸術作品として残す。誰かの記憶に残す。言葉にして残す。

  

  (もし、できることなら。

  誰かの気持ちをほんの少し変化させたい。

  私の気持ちで、誰かの振り幅が広くなればいい。もしかしたらできるかもしれない、と指先でもいい、動かしてほしい。

  おんなじだね、と鏡のように向き合うよりも。

  違うヒトたちばっかりなんだと、胸を張って世界に出て行ってほしい。大袈裟)



  平凡、結構。