少なめを良しとする。

  「粋」は、マイナスの美学の最高峰。


  「粋」について語るほど野暮なことはない。

  本来の「粋」というのは、自分の中で熟成されたもので、個人個人で基準が違う。マニュアルはないのです。雰囲気(ふんいき)の粋(いき)であって、その人のオーラのようなもの。

  江戸時代に。例えば粋な人がいても「あの人、粋だね」みたいな言い方はなかった。必ず過去形。亡くなってから「あの人は、粋だったね」と語るそう。生身の人間に対して使われる言葉ではないのですって。


  「いなせ」という言葉は、男性に限って使われる。鯔(いな)という魚の背(せ)のようだ、髷の結い方がスッキリしていることから、威勢の良い若者をさす言葉となった。いなせと粋は、ある部分重なっている。


  江戸時代に情報誌やファッション誌はないけれど、洒落本があった。

  「粋」と「通」はまた違う意味で。

  「通」の入門書が、洒落本である。

  吉原に行く時はこういう格好、買い物の格好、芝居の格好、オシャレの指南書が洒落本。スタイリッシュなものは、学べば学べる。真似ることはできる。「通」とは、渋い好み、表に出さない深いインテリジェンス、寛容、篤実な性格。

  洒落本のマンマ、真似るのは、野暮。ものすごくダサいのです。

  でも野暮は野暮でもまだ許される。無難、従順、武骨、単純、うぶ。野暮は野暮でも、押し通すのはアリです。

  野暮の下、許されないのは気障。キザ。江戸時代の気障は、かわいくない。ブランド志向、下心が見える、哀愁。生半可、半可通と呼ばれ、評価は低かった。

  (現在のキザは、評価が上がってます。チャーミングな人ねウフフ的な。フェミニストなイメージですよね)


  野暮は、一生のうち大半を野暮な暮らしを送っていても、ある一瞬、粋として光ることはある。気障は、一生気障。一見、通人のようであっても、粋な瞬間はない。だから気障は野暮より下。


  そして江戸は地方出身者の差別はない。訛りを笑うのはタブーでした。全国から人が集まるので、いちいちそんなことをやっていたら角がたつ。無作法。

  田舎者は、野暮に分類されて、ボクトツ。


  着こなしは、その人らしいというのが求められ、マイナスの美学。少なめを良しとしました。色数少なめ、模様より縞。華やかな色より黒。無地。寒くてもあまり着込まない。薄着がカッコイイ。


  粋になるのは難しい。九割野暮、九分気障、一分粋くらいの割合でしょうか??お金がないと遊べないですからねぇ。


  お金があって、人に好かれるような人。親伝来の財産があって、しっかりとした番頭がいて、家業預けっぱなしの放蕩息子。若旦那。現代の坊っちゃまたちはやわですが…、江戸の若旦那はスゴイ。大店をつぶしたりする。いつでも人生を棒に振る覚悟がある。そのあやうさが色気。明日どうなってるかわからないという感じで遊ぶんです。色っぽいッス!

  しゃらり、しゃらりと浮世を渡りたいものですねぇ。


  「粋」は翻訳する言葉がない。

  伊達はダンディズム。シック、でもない。上品ではない。下品と紙一重のあたりにあるもの。さじ加減が難しい。


  どこかに余裕がないといけません。


  何がイチバンと決めない。順位づけしない、値段もきかない、数字ではからない。

  粋な人は立ち食い蕎麦屋でもカッコイイ。カッコよく見えてしまう。

  通な人は名店で食べる、うんちく。


  居心地の良さがわかっている人。


  最終的にスタイルではありません。粋な生き方ということで、生き方全体で評価されます。


  ごちゃごちゃしているものを「粋」とは言わない。ごちゃごちゃしているものは「風流」

  毎日が歳時記のよう。部屋の模様替え、料理も季節感が大事です。ディテールにこだわる、生活を楽しむのは「風流」


  格子とか縞とか、水平と垂直は風景として粋なのかもしれません。洗練。

  蛇行したり、ゆがんだ形も雅ですけど。

  

  江戸の美意識ってスゴイ!

  江戸、楽しそう!


  足りないくらいで、ちょうどいい。