江戸市民には、固有の浮遊感がある。
都市に集まる根無し草のような心もとなさもあるが、もっと解脱したような解放感がある。
江戸には何でもある。聖と俗、善と悪、ハレとケ、実と虚、本音と建前。街が豊かになっていっても、飽きるまで欲するようなことはなかった。道楽者は道楽者としての、節度があるような気がする。バランスの取り方が優れている。
簡単に言うと、接近と回避をユラユラと繰り返すことで常に新鮮であり続けようとする永久運動。真は不粋。まことに趣味的なのであります。
実際は江戸中期には、西洋の文化が入って来てるんですよね。長崎からオランダから。
北斎も後期ルネサンスの油絵を見ているし、技法を取りいれているものもある。精巧な模写や、陰影方法、遠近法に驚いたことでしょう。
けれど浮世絵独特の浮遊感覚はずっと捨てない。デザイン的処理は維持している。
江戸的感覚を保つのに、戯作、という江戸文芸を忘れてはいけない。
パロディ、と分類するにはあまりにも絶大なシロモノだ。モンティパイソンです^_^
キチンとした正道の創作に対し、へりくだる意味あい。
御菓子に対し駄菓子。和歌を戯作して狂歌。俳句を戯作して川柳。小説を戯作して、洒落本、滑稽本、読本、人情本。絵物語を戯作して草双紙。
戯作はサヨクっぽい人に好まれる文芸だと言われます。そのひねくれる手法が反骨に繋がり、ロックンロールなのです。説教調の英雄譚ではなく、英雄を身近な生活感まで引きづり落とす。例えば、左遷の恨みで雷になった菅原道真は、夕立屋を開業したとか。どんな偉人も現実的に描きます。
書き方がまたよろしい。
作者は、登場人物に悪意も好意も抱かず、内面描写をしない。風俗を説明し、時間経過を記録するように会話を進める。そういう書き方は、読者に感情移入を強制しない。どう思うかは読者次第。愚かと笑うのも、同情して泣くのも、苦々しく思って怒るのも、読者に任せられている。
戯作はこのように何も主張せず、中空に浮かんだ視点なのでした。
この潔さ、爽やかさ、清潔さ。
戯作のペンネームも良いです
山手馬鹿人(やまのてのばかひと)
田舎老人多田爺(いなかろうじんただのじい)
元木網(もとのもくあみ)
酒上不埒(さけのうえのふらち)
智恵内子(ちえのないし)
…………
平賀源内はたくさん名前を持っていた。
戯号は風来山人。画号は鳩鶏。俳号は李山。浄瑠璃作者としては福内鬼外。他に、天竺浪人というのもある。
貧家銭内(ひんかぜにない)というのもある^_^