「サイダーハウス・ルール」映画の監督なのですねぇ。
映画は観てないんですけど。原作者ジョン・アービングは大好き。
私はレイモンド・カーヴァーも大好きだし、ヴォネガットも大好きだし、チャンドラーも大好きだし、フィッツジェラルドも大好きなのです。ハリウッドとかアカデミー賞とか言ってしまって、なんだか申し訳なく感じてしまった。
映画はやはり監督のなせる技だ。
ジョニー・デップは「ギルバート・グレイプ」役。出演シーンは多いし、間違いなく主役。でも平凡な役。田舎の町に住む青年だ。主張もなく望みもなく、家がほしいと言う役。静の演技。
対してディカプリオは動の演技。動き回って、ストーリーも動かす。演技の技術を試されます。
……だから、ジョニー・デップは「ギルバート」としているだけでいい。受ける演技。「ギルバート」の強さは、旅立たないことにあって、主張しないことにある。幸せを探しに行かず、待つ、という選択。そんなぼくとつさを、宮沢賢治ばりのぼくとつさを、私たちは目撃する。
これはもはや平凡ではない。
ギルバートのリアリティとファンタジーを内包するのが、ジョニー・デップだ。ジョニー・デップの説得力だ。ギルバートの苦悩が観たいわけではなく、ギルバートの鈍感を観たいわけではなく。ギルバートの真実が観たいわけではなく、ギルバートの夢がみたいわけではなく。ギルバートの挫折が観たいわけではなく、ギルバートの希望が観たいわけではなく。
なんとなく乗り越えていくギルバートを観たい。
無意識の演技、というか。
しようと思ってしている演技ではなく、もう、無意識の演技なのでは?と思えてしまう。
それは直接に私の無意識に訴えかけ、私はそれを説明できない。
例えば「チョコレート工場」のジョニー・デップはどうであったか?もう、キャラクターのみ。演技も難しくない。化粧して、期待される「ジョニー」というキャラクターを演じればいい。
「ギルバート」は、映画の中でリアリティもファンタジーも両方あり、平凡であり非凡であった。
私の無意識はそれに惹かれ、再度映画を観たに違いない。
十代の私と三十代の私は、同じ映画を観て、違うものを見つけた。
押し寄せる感動ではなく、じんわりとした違和感。一瞬の真実を観た気になって、夢をみるのだ。
また十年後、違うものを見つけるかもしれないという可能性もある。
「無意識」というのを、私たちは甘くみている。
無意識にしたことは、多分に正しい。
それを意識的に意味づけ、安心している。
無意識に選んだことを、本当は、もっと意識すべき。
意識的にやってはみても、残るものは無意識の行動。無意識の自分を知ることは、理由のないことで、遠回りになっても最終的に行きつくところ。
無意識の演技を是とし、下手な演出や細工をしなかった監督を是とし、さらにこの映画を是とした自分も是としてみる。
面白い、と思える自分を、十年前に想定しただろうか?
面白い、と十年後に思えた自分をほめてやりたい。
さらにその、十年後を考える。
大袈裟にではなく、自然に、私が一本の映画と向き合えたなら。
そういうことが人生の積み重ねのように思える。
「今さら」観ること「今」観ること。
監督や役者が忘れてしまった(?)古い作品でも、忘れないで再度観る人がいる、というのも素敵だ。
何度も繰り返し観れるから、映画は素敵なのだ。