阿部さんの話。
阿部さんはうちの事務所の臨時職員。定年後に再就職した形だ。63歳、女性。営業。給料プラス出来高報酬、ボーナス付き。有休有り。盆と正月休みも有り。定年前よりは収入は減っているかもしれないけど、わりとフルで働いている。
阿部さんは、おおらかな人だ。
ある夏の日、トイレの扉を開けたまましていた。暑かったんだね、家でも扉はしめないんだろうね。
ある朝の日、チャックが全開だった。私がそれを知らせると「閉めてん」とお尻をつきだした。
事務所でも堂々と新聞をめくる音をたてる。所長の目の前でも。
ポケットになんでも入れるし、ポケットからなんでも出てくる。
笑われるのが苦ではなく、笑わせる気もなく笑われている。
阿部さんがいると空気が和む。
頼みごともされるけど、頼みごとをするのも上手。ご主人も元気で、役や世話人になっている。夫婦共に、どこか憎めないムラ社会の真ん中らへんにいる人たちだ。クラスにいる優等生ではなく、ガキ大将の風情。
阿部さんはのんびりした口調で、どんどん契約をとってくる。
結構、書類に不備がある。
お金が合わないこともあるし、判子が違うものだったりする。
コンプライアンスや何やらで、契約書類も伝票も複雑になった。阿部さんは、間違えてしまう。忘れてしまう。
私の職務は事務なので、阿部さんの書類を受け付けたり出納処理したりする。私の先輩はプリプリしながら訂正印もらったりしているが、つい私は言ってしまった「阿部さんだって、頑張ってると思う」それはどうにもならない事なんだけど。
だからなるべくプリプリしないで書類を直してもらっている。「あ、そーじゃった」と言う顔に、嘘はない。ついこちらが笑ってしまうような、とぼけた調子で言う。
いつだったか。
私が何か阿部さんが差し出したものを遠慮して受け取らなかったことがある。ちょっと作り笑いをしていたのがいけなかったのだろう、嗤ったように解釈され「悪いように、とるねぇ」と冷たく言われ、差し出したものを引っ込めた。誤解です誤解です!と慌てて言い訳した。田舎特有のモノを配る雰囲気に、非ムラ社会から引っ越してきたばかりの私はまだ慣れていなくて、無闇にモノを受け取ることに遠慮があったのだ。そういう反応をすぐに出来る阿部さんを、それはそれですごいと思う。後で陰口を言われるよりは、こちらとしてもよっぽど良い。
阿部さんはよく新聞の人生相談のコーナーを読んでいる。「これ、見てん」と言って「気色悪いねー」と言って顔をしかめる。アタシだったらこうするとか意見も言う。噂話も大好きだ。「あのね」と声を潜められると、こちらもワクワクするから不思議だ。
いつだったか。
私がパソコンに向かって作業していたら不意に「○○さん(私のこと)は、それでえーんよ」と言ってもらったことがある。
慣れない仕事で眉間にシワが寄っていたのかも。ちょっと寂しい顔をしてしまったのかもしれない。
「一度の人生じゃあ。○○さんみたいに、のーんびり構えてるのがえーんよ。カリカリして、どうするんじゃあ。一回なんよ」と言われた。私は「はい」と答えることができずに、「うん」と答えた。
それ以上に答えることができなかった。
でも「それでえーんよ」は、多分、その時に私が必要だった言葉なのだろう。
なにげない、一言だったけれど。ずっと憶えているというのは、それが必要だったから。
……、
……、最近は映画のこととか、「あるベキだ」「あるハズだ」と力説が続いて反省している。説教くさくていけない。
それでいいのだ!と大らかに言える人こそ、好ましい。