傷だらけの時代

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「中立」と「自立」は違うものなのだけど、ちょっとだけ似ている。


  「中立」は、「無関心」ではなく、「客観視している状態」でもなく、第三者として、それぞれの立場に立つこと。「客観的思考」と違うのは、第三者としての意見を期待されること。調停に必要な要素である。


  「自立」は、「従属」や「支配」から自由であり、独自の揺るがない意見や意思をもち、存在すること。自分ひとりで行動できること。


  「中立」も「自立」も、なんにもしない人のことではない。

  行動が前提の言葉である。


  少しでも「自立」した大人なら、自分の意見には責任を持つべきだし、

  自分の意思を眠らせてはダメだ。無感動はいけない。感性を目覚めさせなければ。

  (経済的自立)とか(精神的自立)とか、そういう言葉があるけれども、鑑賞できない人が増えているような気がしている。テレビに従属しているような?…、もっと自立して鑑賞できたら良いなぁ、と思っている。


  日本は憲法の影に隠れ、「中立国」のような顔をしているけれど、どうも、行動しないことの言い訳にみえる。

  アメリカ軍に任せている部分もある。確かに。

  もしかして、無関心?と思えるようなことも。

  意見が言えないだけですか?


  うまく言えないけれど、

  「自立」しようとする人には、補助するべきだ。進路相談にのぞむ高校生たちは、信頼できる大人に相談すべきだ。例えば相談にのるだけでも、本人の自信に繋がる。ずっと助けてもらおうとは、本人も思っていない。

  社会復帰を果たそうとする人たちは、補助を求めているが、ずっとではない。自立した存在になりたいのだから。

  なんにもできないけど優しい子です、と説明する自閉症の子の母親は、その子のできることをまだ知らないだけ。発見されるのを待つ宝物は、まだその子の中に眠っている。何ができるかな?と問うてみると、答えてくれるかもしれない。働くことができるかもしれない。

  欠いた心、欠いた身体でできることを探してみる。

  自由に外出したい、会いたい人に会いたい、思っていることを自由に言いたい、……、挙げたらキリがないような、細やかな望みを胸に秘めている人たちの、なんと多いことか!

 

  「自立したい」

  そういう「将来の夢」でも良いと思う。この傷だらけの時代には。