例えば文庫本を手にとって。
私は本文を読む前に「絶対に」解説やあとがきを読まない。
読書の後に、解説やあとがきを読んでそぐわない事もあるからだ。
解説者の名前を見ただけで、読むまい。と決めることもある。
もちろん、その解説やあとがきがあって本文の魅力が倍増することもあるので、あった方がよい、とは思う。
でも下手な解説はない方がいい。
出版社も、頼んではみたものの出来がよくないものが提出されたら突っ返すくらいの気概があってほしい。プライドを持ってほしい。
蛇足ですから。
昨日の夜中に『季節の記憶』を読み終わり、良い終わりかたで大変安心したのだけど、ついスマホをいじくってしまい、保坂和志本人が『季節の記憶』について説明している文章に行きついてしまった。
読んでしまった。
読まなければよかった。
大変に後悔した。
長い長い解説は、蛇足以外の何物でもない。
書くなよなぁー、と溜息が出る。
本人だからって、書いていいことと悪いことがあるのではないか。
私はそれを「ありふれた物語」として自分も其処にいたかのように楽しく読んだのだけど、実在する人物をアレンジして書いたということを丁寧に丁寧に説明しているのだ。
クイちゃんのモデルは何と、……。
読みながら私も、(もしかして、……。)とは思っている。だけど本人に「実は、」と説明されたら、そうじゃないか!否定の可能性はゼロではないか!
ありのままに説明するのは、多分に良いことだとは思うけど、この解説は私から「ありふれた物語」を取り上げてしまった。
私が入る余地のない、特定の誰かの物語になってしまった。
個人的でベタベタした、とても感傷的な物語に変わってしまった。
そういえば『プレーンソング』の文庫本の解説も、かなりの蛇足だったような印象がある。
こんなに長い説明をするのは、自信がないからかなぁ。
批判を受けるから、気が弱くなるのかなぁ。
確かにどんどん読める小説ではない。
酔っ払った青二才が語るような「愛」とか「幸福」とか「現実」とかビックワードが多いし、扱っているものは描きだしたかったものは、まさにこのビックワードなのだと思う。連鎖、みたいな手法で。じんわりと浮きあがればよかったのではないか。
その試みは面白いと思うし、私は成功していたように感じる。
良い意味での読みにくさは確かにある。
でも読みにくくて当たり前だ。詩集に余白がたくさんあるのは、読みにくいからだ。行間をたっぷり読むために余白が必要なのだ。
誤解してほしくない。私は別に実在の人や土地が先にあって創造性がない、と怒っている訳ではない。アレンジするのも作家の技術で、創造性はあると思う。
私が怒っているのは作品を必要以上にエクスキューズしていること。
詩を、言い訳していること。
詩がわからない人に、いくら説明してもわかるものじゃない。わからない人は、放っておけばいい。
実在する本人に対しエクスキューズするのなら、個人的にしてほしい。プロなら、作品を守ってほしい。実在してても、読者には関係のない話だ。
私は「物語」を望むので、説明なんて必要ないと思う。
そんなことはいいから。
書くなら書いてほしい、小説家として。