ダーティな偏り。


※ ちょっと思い切って(?)言ってみます。

  私の個人的なバイアスが入っているので、興味のない方や不愉快な方は読むのをすぐやめてください。

  文学について。










   もしかして文学とは……『科学的でもなく教育的でない、言葉による芸術的表現』のことかな?

  どうかな?


  ソレだったら『政治的』であってもいいはずだし『宗教的』であっても構わないと、私は思っている。

  (注意点ひとつ、政権運動や布教が目的のものは除く。信者を増やすのが目的なら、文学ではない)

  『人道的』か、否か?というのは、実はポイントだと思う。

  芸術的なら何でも良いのかといえば、そうでもない。こないだ読んだもので、動物を虐待する表現があった。その暴力の表現は、内容よりも率先して表現の自由を認めるか?という問題について考えさせられる。表現は自由だけれど、読者がどうとらえるかも自由なのだ。危険の芽が芽生えてしまわないか?やはり作者は批判に晒されるべきだ。賛否両論あるのが健全、そして作者の態度は社会性を帯びる。(最終的な意図が読めないような暴力の表現)は否だ。(暴力のみの描写)は、センセーショナルを狙う単なるハーレクインの売名行為だ。…暴力のみが真実…、そんなわけない、そうだとしたらなんて寂しい世界なのだ。(暴力は時々ある、それに対処する私たち)の姿の表現が、真摯に求められているように思われる。

  芸術的かどうかを問う前に。


  哲学や数学のような、実に細い細い道を、文学者は辿る。

  揺るぎない真実を追い求める険しい道。

  どんな時代の、どんな国の人にも、無意識下で通じるような理を探し求める。

  文学者自身の個人の経験から、全身全霊で、普遍的な言葉を探す。


  だから詩や戯曲の方が多分、体現しやすい。

  小説という形態は、難しい。


  当時。カフカはどれだけ新しかったろう。カミュやサルトルは?今の私では想像を絶する。理解できないほどに、新しかったのだろうな。


  『通俗的』かどうかよりも、ハーレクインかどうか?

  官能小説が人気でも構わないと思う。欲求を満たすだけならそれでおしまい、ハーレクイン。欲求について思考するなら、通俗的でも一編の小説なのではないか?

  通俗的だから、大衆文学だから、美しくないから、…という理由で「文学的ではない」というのは間違っていると思う。高尚で芸術的なものがすべて文学的であるかというと、答えは否。


  それでも私は。恋愛小説を文学だとは思わない。後付けの説明、思い込み、エンターテイメント。恋愛は思考しますか?思考する恋愛はどんなもの?

  例えば。皇太子妃と恋に落ちる…くらいのスキャンダルでないと、文学として成立しないのでは?と思っている。


  文学として現在最も安易なテーマは、戦争。紛争。


  そして最も難しく平和なテーマは、SFだと思っています。


  芸術的かどうか?というのは実に曖昧で。

  動物にはレイプもない、そしてヒトが思うような複雑な恋愛もない。そして無尽蔵な暴力もない。

  そんなことを考えて、文学という、実に「人間らしい」コミュニケーションの活動を想う。

  

  文学者として、政治より宗教より、切実な生き方をしている人は少ない。そういう意味で(春樹さんよりも)先の中国の方が賞を受ける方が、私は受け入れられる。

  

 文学者として、政治的に宗教的に全く偏りが無いのは、実に中立的で教育的だ。とことん普遍性を求めるならば、哲学者や数学者になるべきだ。文学者は、偏りがあってこそ。どのように闘い、どのように対処し、どのように許すか、そういうものだ。


  もしくは、重力の全く働かないファンタジーに遊ぶこと。

  全く新しい世界を、言葉のみで建築すること。

  

  つまり私がいちばん言いたいのは、文学は過酷。特に小説。

  そして芸術性を語るのはなんだか嘘臭いということ。