あるブログで。
(私だって楽しいことを書きたい)という人がいて。
なんというか、ズシリときた。
本音の重みだ。
私は、報道カメラマンが治安の悪い国で仕事をするのを連想した。
彼等は、目の前で突きつけられる銃や、走って逃げる人々や、難民や、デモや、リンチや、助けを求めて手を差しだしている人々を、写真にうつす。
彼等は瞬時に危険のギリギリ精一杯を判断して、間近で、シャッターをきる。透明人間になって。
其処で一体何が行なわれているのか、伝えるために。
例えば。シャッターをきる前に、助けるべきだという意見がある。
(もっともだ)
でも、カメラマン本人が、それこそ何遍も何遍も何遍も、自らに問いつめていると思う。目の前で行なわれているその瞬間も。その日の夜中にも。次の日も次の日の夜中も、ずっと。思い返し、問うて、悩んでいると思う。報道写真の大きな賞をとっても、自殺する人がいる。
わざわざ危ない処に行かなくてもいいのに、という意見もある。
(もっともだ)
でも、仕事としてではなく、より使命に近い想いで働いているのではないかな。遠い国の話ではなく。知らないままに済ませている事を、あってはならない許せない事を、命懸けで伝えようとしているのではないかな。透明人間になって。
自らを常に正しく正義であると思える人は幸せかもしれないけど、迷惑だ。
(自分は間違っているのではないか)と考える人の方が、人として健全である。
考えるための報道写真なのだ。誰にとっても。突きつけて「お前はどうする?」と問うための。
冒頭のその人はジャーナリストではない。
(ブログなんだからさ、もっとオシャレに気楽に楽しもうよ)というような人たちもいるだろうけど。
楽しい記事や役立つ記事は好まれると思うけど。
こんな本音をポロリとこぼされると、コチラまで溢れてくるようで。
私は忘れる事ができない。
(その人にとっての)真実は何処。
思い悩んで、怒って、悲しくなって、疲れて、へたり込んだとしても。そうすることが、生きることなんだな、と思う。
だからこそ私は、忘れることができないんだな、と思う。