ネィティブ・アメリカンの教えで(贈りものは留めてはいけない、与えられたら与えること、素晴らしいものは巡るべきもの)というような内容のものを学生時代に読んだ。
例えば。誰かが恵まれたら、それを隣の人にもわけてあげる。面白い・楽しいことは皆に教えてあげる。美味しいものは美味しいうちに皆で食べる。
そういうのって本当に素敵だ、と私は今でもずっと思っている。
与えられた人は与えてくれた人に(ありがとう)と言う。
素直にきちんと(ありがとう)が言えたなら、与えた人は気持ちがいい。
(どういたしまして)と素直にきちんと言えたなら、与えられた人は気持ちいい。
気持ちよく受けとることは、連鎖の要だ。また次の機会に、その人に何かをしてあげたくなる動機となる。与えられた人も他人に何かしてあげたくなる、(ありがとう)を言える人は(ありがとう)を聴きたい人なのだ。
ネィティブ・アメリカンはキリスト教の白人に痛めつけられる。
ネィティブ・アメリカンは全員が詩人だったから負けた、と言う人がいる。私もそう思う。
キリスト教にしても仏教にしてもイスラム教にしても、尊い人が倒れた後にその弟子たちがプロデュースしたものだ。尊い人の教えを、近くにいた弟子たちが様々に解釈し布教していく。人が集まるとお金が動く、人を集めるためにお金がいる、お金があるから人が集まる。プロデュースの上手くいった宗教が大多数をなし、数の論理で押しかける。そして生活の一部となる。
信じること〔実践〕と、信仰〔宗派〕ちょっと似ていて間違えてしまう。
信じることは、考え方や癖みたいなもので、変化したり成長したりする。
信仰は、生活様式や文化の背景みたいなもので、染みついたもの。
私はヨーロッパなどのキリスト教の文化がどうしても馴染めない。教会も、宗教画も、聖書も、像も。祈ることの意味が、わからないのだ。「神様、キリスト様、どうかお救いください」……馴染めない。「あなたは神を信じますか?」…信じません。
でも日本に残る畳の教会や信徒さんたちにはそれなりの親しみが湧く(それでも違和感はあるのだけれど)
仏教のある宗派には、観音様になる、という発想があって。私はそれが一番気にいっている。
他力本願は駄目だ。自力で実践するのがいい。自分が観音様になる。
自分の内に観音様がいて、だんだんと現れてくる、、、という性善説が好きだ。弥勒菩薩。
これはむしろ神道的な背景かもしれませんね。
森羅万象、八百万の神。アイヌ語の「カムイ」祖先崇拝。自然崇拝。荒ぶる神、祟る神、和みの神。
キリストだって、博愛・友愛を説いたのだ。
何というか、尊い人というのは瑣末な違いはあったとしても、大元は変わらないシンプルさがある。
要は、血が隅々まで行き渡るように自然に、贈りものが巡る、ということ。潤滑に。
そんなに難しいことではない。
昔、花屋で働いていた時のことを思い出す。
客は花束を注文しに来る、私はどんな人にどんな場面で贈るものか訊ねる、ふさわしい花を選び美しく見えるように整える、客は相手が喜ぶ顔を想像しながら私が花を整えるのを待つ、花束が出来上がり丁寧に手渡したら「ありがとう」と言ってもらえる。それは何と素直な「ありがとう」だろう。
私はお金まで頂いているのに。
客の直接に相手を想う「ありがとう」であり、ここに美しく整えた花束に対する「ありがとう」であり、この待つ時間を共有した「ありがとう」なのだと私は思っている。
私だって思っている、こちらこそ「ありがとう」と。余韻のように。どういたしまして^_^
信じるって、そういうことなんじゃないかな、と思っている