(私は思う)と言う自由。

  自由というのは、無関係である、ということ。

 

  なんの束縛もないこと。

 

  (自由に生きたい)と言う人は、孤独を望んでいるのだと思う。

 

  不自由さが(生活)なのだと思う。

 

  子供と大人の差は、その辺りにあると思うけれど、正比例ではない。成長することは、不自由になることではないし。不自由な子供もいる。

 

  ある方のブログで。

  僕はどちらかと言うと右よりだ、この国は政治も宗教も(なんとなく)タブーな話題で。なんとなく、そうなんだ、と言うしかない。という記事があって。

  私はモヤモヤした。

  私は(どちらかと言うと、左より)だから。

  自衛隊は軍隊にならないでほしいし、原発反対だし、TPP反対だから。

  新聞をみる度に不愉快になるし、暗くなる。

 それだからといって、彼は何を思っても自由だし、私のモヤモヤは彼に届けなかった。届けないこともまた、自由だ。

 

  山本議員の手紙の件も、「可哀想」と思った。この人は原発問題で国政の舞台にあがったけれど、発言権は無いのだ。多数決の場面では、ゼロになるのだ。パフォーマンスかもしれない。彼の真意は、分からない。元首相の原発への発言はニュースになる、人気があるから。彼は、影響力があるほどの人気はないから、こういう扱いなのだろう、、、政治利用というけれど。気持ちが[まったく]伝わらない様子が、辛かった。国政だけではなく、ニュースの世界でも発言権は、ゼロなのだ。

 職場の休憩室で「可哀想だと思う」と私が言ったら、テレビ信望者の人がコメンテーターがこんなやり方はけしからんって言ってたよと言った。彼女の意見は言わない、ただコメンテーターの言葉を繰り返すばかり。私と対立したくはないのだろうけど、気狂いを見るように私を見ている。平行線だし。私は彼の行動の内容を吟味したいのではなかった、失うものなんて多くない山本議員の、何かを変えたいと思う行動は[まったく]伝わらないということが、悲しいのだ。そうして、私も、気狂いになる。

 

 

  電気がとまったら、困る。

  生活できない、生きていけない

 

 けれど。

 そういう情報さえ、疑わしい。情報を信じられない。

 

  私が信用できるのは、私の経験だけ。

  言葉も抽象的過ぎて、装飾に見える。

  

  私の記事に対して、ある方がある宗教のある一派をどう思うか?と問うたことがある。

  私は経験から思ったことを書いていたので、その一派に対してその記事以上に〈書けない〉と思った。本を一冊、精読した訳ではなく。本を百冊、精読したわけではなく。修行にでたわけではなく。相手の方は、本を何冊精読したのか、修行にでたことがあるのか?、、、、、、、、どう答えていいのか、わからない。

 

 では。知らないことに対して、何も思ってはいけないのか?

 知っていることしか、思ってもいけないし、発信してはいけないのか?

 

 (生活する)ことは、不自由で。だけど捨てることはできない、それもまた不自由。

 せめて(生活)から離れたところでは、休憩時間やブログでは、自由でありたいと思う。無責任ではいけないけれど、勿論。経験から信じられる言葉を選んで。せめて自分が知っていると思われる言葉を使って。

 思うことを(なんとなく)書いたっていいではないか。

 記事を磨いて磨いてナイフのように尖らせて、市民運動に参加したり、抗議したりしなければいけないのか。

 (生活)の場では、黙っている人も多いと思う。その沈黙は「賛成」「反対」どちらでも解釈可能。まったく関心のない人だっている。不自由な人もいる。

 

 いつか自分も山本議員のようになるかもしれない、だから私は彼を可哀想だと思ったのだろう

 あなたの意見はゼロ

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