世界にくちづけするように

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  すべての女性を愛するドン・ファン……

  ……プレイボーイとか浮気性とか薄情者とか嘘つきとか、いろんな言い方があるけれど、映画「ドン・ファン」のジョニー・デップが演じたようなドン・ファンなら……、個人的にワタクシは、女性としてマチガイがあっても良いなと思う。
  それは女性崇拝の最たるもので、見ようによっては平等なユートピアで、サヨクの革命児のようであった。「一晩だけでも一緒にいれて幸せ」と女性に思わせるのだから、幸福の使者のようだ。遺伝子的に魅力的なのだろうし、本能が求めることに逆らうことはできないだろう。幸福とはつまり(とろけるような感覚)なのだと思う。美味しいものを食べた時、柔らかい布団で眠る時、待ち望んだ瞬間に到達した時、感動した時に(とろけるような感覚)はやってきて私たちを圧倒する。
  圧倒的な幸福を体現するものとして、ドン・ファンは存在するのかもしれない。


  こんな文章を読んだ、、、、

  、、、、長年連れ添った妻が、末期の乳癌で入院している。妻には余命宣告をしていないが、薄々気づいている様子。妻は新婚旅行で行った尾瀬の湿原に行きたいと夫にせがむ。リハビリを重ね、抗癌剤とモルヒネを調整し、一時退院をし、夫と二人で尾瀬に向かった。
  新婚旅行はミズバショウの季節6月の頃であった。白いミズバショウが美しかったこと。あの頃のように二人でリュックをかついで歩きたいと妻は望んだ。
  夫はリュックなどかつがせたくなかった。再度訪れた尾瀬は秋も終わりの頃で寒かった。ミズバショウも咲いていない湿原の細い道を、長く歩くつもりもなかった。妻の望みを叶えてやりたいが、妻の体調が第一であった。湿原で歩くことを考えて、初日は移動のみで近くの宿に泊まって備えた。
  その朝。湿原に霜が降りた。
  霜の白が幻想的で、ミズバショウの湿原のように見えた。二人ははしゃぎ喜んで、細い道を歩いた。思い出の地で失望したくなかった二人は、全く(白)を期待していなかった。想像もしていなかった。二人は湿原を再訪できて満足し、この光景をみれて良かったと思った。少し目を離した時に、妻の様子が急変した。夫は妻をおぶり山小屋まで急ぎ戻った。だらりと崩れる妻の身体を、自分の身体に紐でしばりつけた。山小屋からヘリコプターで搬送する時、すでに妻は心肺停止状態であった。
  末期の癌であったのに「変死」を疑われた。夫は解剖を許可しなかった。自らが疑われていたのに。
  後になって妻の持ち物から遺書が出てきた。ありがとう、ありがとうと重ねるような感謝の手紙だった。病院のベッドでは死にたくないと書かれていた。死を覚悟した旅行であったことに間違いはない。自殺したのかもしれない、薬を隠し持つなどして。
  夫も言う「妻は自殺したのかもしれない」 自殺というより、自分で死を選んだのかもしれない、と言う。
  尾瀬で死にたい、と妻は望んだのだろうと言う。
  幸せの絶頂であった新婚旅行の尾瀬、いつも見れるよう台所にその写真を飾った。年月と共に油じみていく写真の中の尾瀬。共に歩んだ年月を想い、奇跡のように白い湿原を見て、ああ、と思ったに違いない。美しかったのだろう。
  一切の未練も残らない程に、美しかったのだろう。
  
(  、、、、私はそういうことはあるんじゃないかと思う。幽霊が成仏するように、未練を残さず、最期の一歩を踏み出すようなことはあるのではないかと思う)

  この文章は、フリーペーパーに掲載されたものをまとめた書籍の、冒頭の作品だった。
  満員電車に揺られる会社員が、こういう話をサッと通りがかりに抜き取って読むのかと思ったら、なんだかそれも切なかった。満員電車のガラスにうつる顔は、自分の顔ではないように無表情。どの顔も無表情。どんどん消費され、どんどん磨耗して、精気を抜かれていく。ペラペラの無表情の人たちが、ペラペラのフリーペーパーを抜き取り、不意にこういう話に出会うんだな。
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