その人は、仕事で山口に出張だったので、急遽メールで連絡をとりあって、なんとなく待ち合わせをした。
(友人)というか。知り合いの知り合い、に、近い。実は、本名も知らない^_^
もしかしたら二年ぶりくらいである。
音楽が止まない、ある店http://sprighascome.hatenablog.com/entry/2013/09/11/223135の、常連さんである。
彼は歌を歌う。彼はドラムを叩く。彼はギターを弾く。彼はキーボードもできる…譜面をアレンジしたり、演奏を演出したりもする。ライブを録画録音したり、パンフレットも手伝ったりする。いわゆる「できる人」そしてダジャレを飛ばすのが早い人、そして滑りまくりな人。
驚いたのは、電話番号も知らなかったこと。
今思えば、細く、微かな、淡い関係なので、「よくもまぁ、会うよね」と自分でも思う。
何故そんなに淡い関係でも会うことができるのかと言えば、私は彼が好きだから。
そして彼も、私が好きだから。
音楽を通じて。
早い話、彼のボサノヴァやジャズが好きなのだ。
彼の音楽を知っているから、好きなのだろう。
☆
「合う」こと、合わせていること。
「会う」こと、面と向かうこと。
「逢う」こと、それは情事。
「遭う」こと、それは偶然に。
音楽に合わせて、多分、違う経験を重ねていても、合わせることはできる。
「あ、それ、知ってるー」というノリを私は憎む。知ってることは、なんにも無い筈。テレビも新聞も信じていない、情報は簡単に作れる。なんにも知らないんだ、本当には。
(でも彼の歌を聴いていたら、彼という人間を知っている気分になる)
なんにも知らないことが、心地よい。
無意識に。やはり知っているフリをする。親身なフリをする、深刻なフリをする。好意的なフリをする、尊敬しているフリをする、できるフリをする、やるフリをする。
それは悪いことではないけれど。
「合わせている」自分が、緊張している。
都会的な空気は間違いなくこの感じ、なんにも知らないけど心地よい感じ、だと思う。違うことが当たり前。知らなくて当たり前。合わせなくても(許される感じ)が、懐かしい。新しいことでも、スッと入れる感じが懐かしい。
幼馴染や親戚や顔見知りばかりの、〔知っている人たち〕の土地で、私は少し羽を伸ばした。
私たちは、同情できないような話もするし、わからないような事も言うし、本当に好きなものの話もするし、バカだと笑われるような話もする。どちらかと言えば、バカだと笑われたいし、同情してもらわなくていい。面白い話というのは、結末がわからない知らない話なんだよな、と思う。
細く、微かな、淡い関係の人に、実際、救われる。
都会に住む人たちは冷たいと言われるけれど、実はこんなに暖かい。
音楽に合わせるように、音楽に会うように、音楽に逢うように、音楽に遭うように。
いつまでも新しく、そして古びた思い出のように、更新して重ねて、あるいは失って、再会したりして。
音楽は自分なのだな、と思う。
音楽を共有できる人は、時間を共有することができる。
再会できてよかった。
「会えて本当に嬉しい」と、私たちはお互いに、何度も言いあった。