とらわれたもの。

  とらえがたいもの。http://sprighascome.hatenablog.com/entry/2013/11/26/212659について、この間、考えていた、というかぼんやりしていた。美しさに感動するってどういうことなのだろうと、メモを整理するようなもの、羅列。
  羅列しかできない。なんかもう、感動してしまったら全面降伏で、とらわれてしまう。理解することも無意味。自分も無意味。小林先生も青山先生も「実践しなさい」と言うが、釣り竿をムンムンと引き、魚を泳がせながらリールを慎重に巻くようなもので、ヒラヒラと泳ぐ「美しいもの」に私は遊ばれている。そうして逃げられる。それで「そういうものかな」と、後ろ姿の余韻に浸る。

f:id:sprighascome:20131208192637j:plain

   
  興味深く読んだのは、お二人とも骨董を買う時に贋物を恐れないこと。
  専門家に鑑定を頼んだりしない。
  骨董に「狐」が憑く。
  ある時、小林先生は鎌倉の道具屋で美しい呉須赤絵の皿を買った。得意になって青山先生に見せると贋物だという。その晩は口惜しくてどうしても眠れない「心に沁みる様に美しい。この化け物、明日になつたら、沢庵石にぶつけて木っ端微塵にしてやるから覚えてゐろ、とパチンと電気を消すが、又直ぐ見たくなる」という具合。翌日、壺中居へ持って行って見てもらうと、それが真物であるとわかり、小林先生は気が抜ける「いい、と言はれても、もう二度と見るのも厭だ、ヘドが出るほど見ちまつた」と、その皿を店に置いて帰るのである。
  惚れこんだ呉須赤絵を、一晩で売る。「狐」は落ちて、平常心を取り戻す。それでも骨董屋に通う。そして怪しげな物こそ、真贋がハッキリしない物こそ、惹かれてしまう。ありえないけどあってほしい、という期待。なさそうなもの。悪女の深情けとか、悪い男にかぎって優しいとか、そういうものかな^_^
  憎めないような小憎らしい感じ。
  もしかしたら贋物の方が美しいのかもしれない。

  目を凝らしたら、見えてくる???

  
 まぁ、目を凝らさなくても、向こうからやってくるものらしい。
  以下引用。

  ……この前、「モオツアルト」について書いた時も全く同じ窮境に立つた。動機は、やはり言ふに言はれぬ感動が教へた一種の独断にあつたのである。あれを書く四年前のある5月の朝、僕は友人の家で、独りでレコードをかけ、D調クィンテット(K.593)を聞いてゐた。夜来の豪雨は上つてゐたが、空には黒い雲が走り、灰色の海は一面に三角波を作つて泡立つてゐた。新緑に覆われた半島は、昨夜の雨滴を満載し、大きく呼吸してゐる様に見え、海の方から間断なくやつて来る白い雲の断片に肌を撫でられ、海に向かつて徐々に動く様に見えた。僕は、その時、モオツアルトの音楽の精巧明皙な形式で一杯になつた精神で、この殆ど無定形な自然を見詰めてゐたに相違ない。突然、感動が来た。もはや音楽はレコオドからやつて来るのではなかつた。海の方から、山の方からやつて来た。そして其処に、音楽史的時間とは何んの関係もない、聴覚的宇宙が実存するのをまざまざと見る様に感じ、同時に凡そ音楽美学といふものの観念上の限界が突破された様に感じた。……

   「ゴッホの手紙」序文の一節。小林秀雄


    ……それから四年後、「モオツアルト」の中にも、似たような感動が、突然おそったことを記している。

  ……もう二十年も昔のことをどういふ風に思ひ出したらよいかわからないのであるが、僕の乱脈な放浪時代の或る冬の夜、大阪の道頓堀をうろついてゐた時、突然、このト短調シンフォニイの有名なテエマが頭の中で鳴つたのである。……僕は、脳味噌に手術を受けた様に驚き、感動で慄へた。百貨店に駆け込み、レコオドを聞いたが、もはや感動は還つて来なかつた。……

  この感動体験は似ているけれど、少し違う。身体の内から突然にやってくることもあるし、海の方・山の方から徐々にやってくることもある。
  私は身体の内から突然の衝撃なんて受けたことはないので、羨ましいなと思った。そうなるためには、精神を充していなければならない。
  とらわれてみたい
  とらわれたい

  骨董屋を覗かずにはおれない気持ちだけは通じる。わかる。実践できる。(私の場合は美術館や展示会が主だけれど、引き寄せられるようにチケット購入している^_^)
  そういう意味では、すでにとらわれている

  美しいモノに出会いたい

f:id:sprighascome:20131208192816j:plain