『雪屋のロッスさん』いしいしんじ、メディアファクトリー、2006年。
短編集。
絵本のようにあっさりと、簡単な言葉で書かれている。でもきっと、言葉の横に絵があったら邪魔だろう。そういう意味では詩集に似ている。
目次が可愛い。「なぞタクシーのヤリ・ヘンムレン」「調理師のるみ子さん」「大泥棒の前田さん」「棺桶セールスマンのスミッツ氏」「風呂屋の島田夫妻」など。その人の、職業と名前が書かれている。
いしいしんじ目線の、人間フォーカスのスナップ写真。読んでいるうちに、るみ子さんや前田さんと同じく、作者の切り口が見えてくる。
1人の人間は、決して一面ではない。
いろんな顔を持ち、いろんな役割を持ち、いろんな約束をして、いろんな希望を持つ。うんざりする程、多面体だ。ある人なんかは、もう球体なのではないかと思ったりもする。角が取れちゃって、掴み所がない。いろんな角度から眺めても、 1人の人間を把握するのは難しい。瞬間的にわかった気がしても、過去現在未来変化していくのだから、その人が死んで初めて完成する。有機物だからね^_^
この短編集は、本当にある一面のみ。
たくさんの人の、ある一面のみ。
作者の切り口、それだけ。
あ、こういうのもいいな。と思った。
例えば「風呂屋の島田夫妻」
銭湯「島之湯」ではガスを使わず、いまだに薪で湯をわかしています。まん丸頭のご主人、島田春雄さんは、この道五十年の釜たき職人。奥さんのるり子さんはもっぱら番台にすわっている。毎晩シャッターを閉めるとふたりはリズムを合わせ湯船を磨きます。
島之湯にくるのは、年老いた常連客ばかりではありません。近所の若夫婦、中学生の草野球チーム、ひとり住まいの青年たち。はるばる電車にのりやってくる若い女性までいました。みんなお湯からあがっても、しばらく縁台に腰かけ(表に出してあります)、夕暮れの風に当たりながら、ここちよさげに目を閉じています。
島之湯のお湯はまさにごちそうでした。その日の天気、湿気や風の具合などから、春雄さんは毎日の湯加減を決めていました。………
「るり子さん、風呂に張る水をかえたかね」
「いいえ。どうかされましたか」
………
先週からお湯が以前にもまして肌になじむようになった、と告げた。家へ帰ってからもいいにおいがずっとつづく、猫や犬は膝に居座って動こうともしない。まったく魔法の湯だよ。
るり子さんは黙ったまま脱衣所を見渡しました。いわれてみると、お客たちのからだはぼんやりと光を放っているように見えました。
………
……、とこのように物語は続いていく。
このあと、るり子さんは春雄さんに歩みより、お湯に入ってください、と言うのです。
なんてことのない話だけれど、つい読んでしまう。
と、書いても。私が(いいなぁ)と思った感じって、伝わらないなぁー
小津安二郎とか、そういうのでもない。
うーん、うーん、うーん、、、、
島田夫妻の内側は触れないけれど、後ろ姿のシルエットをうまくとらえた!という感じ。あるいは逆光の横顔、かも。
(1人の人間の複雑さもいいけれど)
多くの人間に通じる、根本の何か、を感じてみたい。
ぼんやりとそんな風に本を閉じる。