巡礼。

  私は( 水曜どうでしょう)というHTB制作のテレビ番組が、大好きであった。

  主に旅番組。出演者とディレクターたちが運任せな旅に出て、その時その時の旅の感動、ボヤキ、遊び心などをまとめた内容であった。観光スポットは訪れてもほとんどレポートしない。移動中のまったりとしたトークが主。無口な人もいる、ボヤいてばかりの人もいる、感激屋さんもいる、マイペースな人もいる、4者4様男4人、運任せの旅。見ていてなんとも癒される。飾らない雰囲気なので視聴者である私も一緒に旅している気持ちになれる。無口でもボヤキでも感激屋でもマイペースでも(許されている)場が羨ましくなる。番組を続けて見れば見るほど、その4人の関係性は確固として浮き上がり、参加している気分の視聴者は、彼等がまるで自分の友人のように思えてきて親密な気持ちを抱くようになる。

  辛い過酷な旅でも、カハハと笑いあう瞬間がある。いい笑顔で繋いでいけば、実際はどんなに地味で過酷な旅でも素晴らしい旅に思えてくるから不思議だ。笑顔の魔法。

  (旅というのはそもそも過酷。珍しい景色を探し、食事と憩いを求めて尋ね歩く。ホームグラウンドで安心して遊ぶのとは違っている。そうした不安が旅の醍醐味)

  

  熱烈などうでしょうファンたちは、彼等が訪れた場所に行ってみたくなる。〈どうでしょうの聖地〉と呼ばれる。彼等が訪れた沖縄のある港では、夜釣りをしながら寝入った為、港に横たわる人が増えたという。マレーシアのジャングルの中にあるリゾート地では、日本人が増えたという。テレビの中の彼等を羨ましく思い、自分も行って確認する。……そういう旅の提案もアリだなぁ、と私は思います。そもそもどうでしょう班の旅には、目的地はあるけど目的がない。ソレ良さそうだね!なんて言って、すぐ寄り道する。道に迷って不機嫌になっても、どうやって仲直りするか機嫌を上げるか、互いに模索する。〈あの港に横たわりたい〉と思ってはるばる遠方から訪れる人は、我知らず寄り道したり、仲直りしたり、機嫌を上げたりしているのではないか。同じような試練に出会ったなら、嬉々として(どうでしょうっぽい!)と立ち向かうのではないか。(どうでしょうっぽい!)旅は、まちがいなく珍道中。だけどカハハと笑わなければならない^_^それがルール。


  ガイドブックは勿論、今はスマホでなんでも調べられる。情報は選び放題。

  知らない場所であるはずなのに、情報先行で知った気分になる。人気順、値段順、時間順、クチコミ、ぐるナビ。
  快適な旅は可能になったけれど、新鮮な旅は少なくなった。
  そういう時代だからこそ、知らない場所に行きたいと思う。



  昔から。日本人は巡礼の旅に出た。
  伊勢参り。山の信仰。西国三十三箇所四国八十八箇所霊場。名所は各地に存在する。
  
  昔に比べて現代日本は、全体に宗教に対して距離があり、信心深い人は少ないように思う。葬式を出す時に意識するくらいで、南無妙法蓮華経、南無阿弥陀、なんと唱えてよいか分からない人は多いと思う。興味も薄い。

  有名で歴史のあるお寺や神社も、観光地化は進んでいる。帽子をかぶったまま参拝する人もいるし、カメラで写真を撮る人もいる。信者でない人たちは、畏れる気持ちも少ないだろう。私は思う、大同小異、マナーが悪い観光客も信心深くない私も、祀られている神様仏様からすれば変わらない。信じていないのです。申し訳ないなぁ、と思ってしまう。


   ……自分を言い訳するのだけれど、昔の人だって(なんとなくお参りする人)は多かったと思う。割合まではわからないけど。落語にもあるし、東海道五十三次もあるし、娯楽の一つであったはずだ。巡礼は大願悲願のためばかりではない。それは大願悲願がある方が、収まりは良いけど。

  ただ歩く。歩きさえすればいい。

  ただ巡る。

  そうする事が大事なのだ。

  寄り道を楽しむ人もいれば、帰り道を楽しみにする人もいるだろう。娯楽なのです。


  日常から逸脱すること、汗をかいて山に登ること、そこで食べたおにぎりが五臓六腑に沁みること、お日様にあたること、疲れ切って眠ること、

  そうした中で仲間を思い遣ること、周りの人たちに感謝すること、楽しいことを見つけること、綺麗な景色に気づくこと、、、、

  そういう浄化装置のようなものが、巡礼なのだなと結論する。

  ただ歩けばよい。時間をかけて。

  ただ巡ればよい。


  目的地はあっても目的のない旅。元気じゃないと出れないよな、巡礼って。

  

  いつまでもそんな旅をしたいと思う

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