その時。

  私はその時、関東郊外の店で働いていた。
  ドラッグストア内にある花屋の、雇われ店長。
  仕入れてくる人から花を選び、売り上げと前年比と仕入れ値を見比べて、商品の管理をしていた。歩合制でもない。サービス残業もした。アルバイトの女の子を使い、使える日数を計算してシフトを組み、自分の力量で采配した。損が出ても、無責任ではないけど責任ははい(出資はしてない、損もなければ益もない、保険は会社持ち退職金無し産休3ヶ月)
  その時、お彼岸の前で、花をたくさん仕入れていた。
  
  揺れた時、切り花の水あげをしていた。
  私はバイトの子とすぐに外に出て広い場所でしゃがんだ。

  避難訓練もそれまでは参加していなかった。
  売り場の前のワインの瓶は割れ、停電し、ガラスが割れた。アルコールの匂いで酔いそうだった。

  午後だった。
  皆、怖がっていた。

  私は怖かった。
  余震の中、暗い店内で、最低限の片付けだけして、私は帰ろうとした。
  電話は通じなかった、固定電話も携帯電話も。タイムカードの電源も入らない。懐中電灯もない。
  家族にも、近所の人にも、友人にも、職場の人にも、携帯から電話とメールをしてみた。反応はなかった。
  
  そのドラッグストアには。すぐお客がやってきて、電池やペットボトルの水やロウソクや食糧を求めた。レジスターは使えないけれど、電卓で 売買を始めた。すぐに商品はなくなった。彼岸の花を求める人はいなかった。私は最低限だけして帰った。バイトの子は「いーんですか?」と私に問うた。私はその子の命を預かるのも怖かった。その子は徒歩15分ほどで帰れる。いいから帰ろう、家族が心配しているだろう、と私は言い訳した。

  私は歩いて帰った。1時間半かかった。

  切り花を入れるショーケースは停電のまま。温度は下がらず、蕾は開いた。

  信号は止まったまま

  道は渋滞だった

  とにかく帰巣本能が働いた。
  私を待っている家族は、猫だった。一人暮らしだった。とにかく猫をみて、ほっとした。持ち物は少なかったので、部屋が散乱しているのも少々だった。八階に住んでいたけれど、冷蔵庫も食器棚も無事だった、震度6程はあったと思うけれど。運も良かったのだと思う。
  火事も出なかった
  水道も使えた

  夜になって、電話で話せた人がいた。
  それで少し安心した。

  ☆

  しばらく寒かった

  しばらくエレベーターに乗れなかった

  しばらく、あるものを食べた
  ガスは使えた
  お風呂も最小限、裸になるのが怖かった

  トイレットペーパーがなくなったらどうしよう、と考えていた
  
  風呂に常に水を常に貯めた

  汚染された雨に、(多分)濡れている
  
  暗い夜は眠った
  ラジオもテレビも怖かった
  一週間目に、もうスイッチを入れないと決めた。情報が無いのも怖かったけれど。
  
  夜中に余震で揺れるのも慣れた
  そのたびに暗闇の中で、揺れがおさまるのを待った。ただ待った。

    心細かった

  
  ☆

  細かいことはあまり覚えていない
  
  彼岸の花は売れなかった

  計画停電で、ドラッグストアも花屋も無茶苦茶な営業状態になった

  電池、ロウソク、食糧、水、オムツ、トイレットペーパーなど、仕入れても従業員が先に確保するので店頭に並ぶのは僅かだった。そのドラッグストアは「特需!特需!」と鼻息荒かった。募金を募る一方で、早い者勝ちの論理が働き、しかも公平でもなかった。搾取があった。僅かな商品は、干上がるように消えていった。
  
  私もトイレットペーパーが欲しかったけれど、この店では買うまい、と何故か決意し、他のスーパーで物品を探した。
  結局、どうにかなった。

  花が枯れても仕方ないと思った

  

  辛いめにあった人が、私に話す
  殆ど泣きながら

  うん、うん、と聞いた。

  それで、「じゃ、また」と別れる
  私は真摯な気持ちで「また」の機会を待つ。
  テレビやラジオのスイッチは切るのに。
  私は等しく怖かった

  等しいわけもないけど、
  何とも等しくないけど。

  

  福岡の友達が長靴を持ってボランティアをしに行った。
  私も行こうと思えば行ける筈だった。
  揺れるのが怖い
  寒いのが怖い
  失って、泣いている人が怖い

  福岡の友達は、距離感を感じると言った。物理的にも遠い。
  私は怖くて行けなかった