友達になろう。

  f:id:sprighascome:20140513191612j:plain

  今日、オヤツをもらった。

  ちょっと陰に手招きされる。「ちょっ、ちょっ、ちょっ」おいでおいで、と手招きされる。
  「○○さん(私)、頑張ってるからオヤツあげよう」
  「は、ありがとうございます」


  可愛げに包装されたマドレーヌやらクッキー。その人は、ピンクの手提げバッグにそっと入れてくれた。
  
  咄嗟に私は。
  「えーっと、お返しに何かないか?」と辺りを見回した。しかし見回しても用意された可愛げなお菓子に見合うモノはない。
  その人も咄嗟に。
  「ええよ!…ええんよ!数はよぅけないけ!あんたにあげるんよ!ええんよ!」と、かぶせるように先に言う。
  …ありがたく頂く。

  私がその贈り物に対して思うことは、、、、贈り物が何であるかというよりも、ソレが私の為に用意されたのかということ。その人が私を思い出し、わざわざ私の為に時間とお金を使って用意し、その人がなるべく「素っ気なく」なるべく「さりげなく」私に渡そうとしていること。そういう、一連の思う気持ち。
  逆に、皆の前で、どれだけ苦労して、、とアピールされたら、私個人に対する贈り物というよりもその人自身の自己満足のように思われる。また逆に、本当に要らないモノ余ったモノを誰でもいいけどたまたま私にくれたのなら……、受け取るこちら側も、相応になる。
  贈り物って、そういうものだ。

  お返しを用意したら間違いなく「倍返し」
  お返しを期待していたら、それとわかる。得か損か、考える人はいるから。
  お返しは気持ちだから。

  その人が本当に喜ぶモノ、その人は何を喜ぶだろう?と想像すること、重荷にならないように気を遣うこと、そういったイッサイガッサイを含め、〈贈り物〉だよなぁ……と思います。

  喜んでくれるかなとモジモジして。
  喜んで受け取ることが何よりの贈り物かなぁ……、なんて^_^
  たかがオヤツでいろいろと考えるワタクシであります。
  
  可愛げに包装されたレーズンサンド。
  精一杯に素っ気なくする、その人の気持ちが、私は何より嬉しい。

  

  ☆


  わたしの捧げかた  


  絵は窓なのよ  わたしにとって

  わたしは世界を眺めるの

  映画は夢なの  わたしにとって

  わたしはすぐに忘れてしまう

  本はカタログ  わたしにとって

  わたしはいつか世界を買うわ(多分月賦で)

  でも歌は歌なの  いつもいつも

  わたしは小鳥に負けないわ

  そしてあなたはあなたなの

  わたしにわたしの捧げかたを教えて下さい

  幸福なんてなんでもないのよ

  不幸なんてなんでもないのよ

  わたしがわたしになれるなら


                         ー谷川俊太郎


  f:id:sprighascome:20140513224219j:plain

    日曜日にNHKのハートネットTVで、LGBTの人権問題を取り上げていた。

  LGBTは、レズビアン、ゲイ、バイセクシュアルトランスジェンダーの略で、多様化する性の問題についてディスカッションしていた。当事者、支援活動する人、精神科の医師、アナウンサーなどが質問したり答えたりしていた。番組放送中随時NHKホームページでツィートや相談を受付ていた。


  番組に出演していたLGBT当事者の方たちは落ちついていた。顔も年齢もさらして、LGBTの立場で発言していた。私は(ありふれた人たち)に思われた。ある空間で一定時間過ごすのに、一緒に仕事をするのに、気持ちよく接することができそうな人たち。友達にだってなれそうだ。

  LGBTの人たちが働きやすい環境の整備(更衣室やトイレ)はもちろん大切だし、他の国と比べて日本は遅れていると思う。


  出演者の一人が言った、…例えば(ゲイ)という言葉より(ホモ)といういう言葉の方が傷つく。傷つかないゲイもいるだろうけど、自分は子供の頃にホモと言われイジメられた、どうしても差別的な蔑称のように感じられる、と。

  私は「ほぅー」と思う。

  一般論としてゲイの話ができるゲイもいるし、性全般の話題に過敏になるゲイもいる。LGBTではないストレートな人だって、性全般の話題に過敏になる人だっている。セクシャルハラスメントは、言った側の侮蔑意識の有る無しの問題ではなく、言われた人が侮辱だと感じたらその時点で成立する。そういうものだ。


  要するに(大きくまとめることは間違っているかもしれないけど)、差別はその人の一人一人の問題だ。


  差別する人は、LGBTだけでなく、全般を差別するのだ。

  他のマイノリティや外国人や、髪を染めた若者や貧乏人や高齢者や女性や病人や障碍者や、…、あらゆる人に対して、潜在的に偏見を持ち差別している。イスラム教徒とみたら、その人が持つイスラム教徒のイメージが現実より先行する。相手の細かい宗派も知ろうとせずに、テロリストだったらどうしようと考える。「差別」ではなく「区別」と言い換えるのかもしれない。線を引いて、分けているのだ、歪んだ一般論を振りかざして。

  キタナイ、リカイデキナイ、トクニナラナイ、という気持ちは、拭えるのだろうか??

  果たして。


  LGBTの人たちは、レインボーカラー7色を身につけることで、自分はLGBTであると表明することができる。

  私はこの番組で初めて知ったのだけれど、レインボーカラー6色を身につけると、自分はLGBT当事者ではないけれど支援者であることの表明になるらしい。アライ、アライさん、と呼ばれる。当事者がカミングアウトしなくても、差別的発言を抑止したり、相談にのる用意があることを示す。

  私は「ほぅー」と思う。

  誰だって、一人一人なんじゃないかな


  番組に出ていた、ありふれた感じのLGBT当事者の人たちは言った。

  必ずしもカミングアウトすることが幸せになる道ではない

  友達や家族など、自分に近しい人、大切だと思う人ほど、打ち明けることは難しい

  カミングアウトするよりもした後のことを考える。打ち明けられた相手の人たちが、どう受け止め、その受け取った後のバトンをどうするのか

  自分自身であるために、それは(カミングアウト)必要なことなのか

  

   私たちはありふれている。

   一人一人、ありふれている。


  f:id:sprighascome:20140513222826j:plain