わたしの捧げかた
絵は窓なのよ わたしにとって
わたしは世界を眺めるの
映画は夢なの わたしにとって
わたしはすぐに忘れてしまう
本はカタログ わたしにとって
わたしはいつか世界を買うわ(多分月賦で)
でも歌は歌なの いつもいつも
わたしは小鳥に負けないわ
そしてあなたはあなたなの
わたしにわたしの捧げかたを教えて下さい
幸福なんてなんでもないのよ
不幸なんてなんでもないのよ
わたしがわたしになれるなら
ー谷川俊太郎ー
日曜日にNHKのハートネットTVで、LGBTの人権問題を取り上げていた。
LGBTは、レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーの略で、多様化する性の問題についてディスカッションしていた。当事者、支援活動する人、精神科の医師、アナウンサーなどが質問したり答えたりしていた。番組放送中随時NHKホームページでツィートや相談を受付ていた。
番組に出演していたLGBT当事者の方たちは落ちついていた。顔も年齢もさらして、LGBTの立場で発言していた。私は(ありふれた人たち)に思われた。ある空間で一定時間過ごすのに、一緒に仕事をするのに、気持ちよく接することができそうな人たち。友達にだってなれそうだ。
LGBTの人たちが働きやすい環境の整備(更衣室やトイレ)はもちろん大切だし、他の国と比べて日本は遅れていると思う。
出演者の一人が言った、…例えば(ゲイ)という言葉より(ホモ)といういう言葉の方が傷つく。傷つかないゲイもいるだろうけど、自分は子供の頃にホモと言われイジメられた、どうしても差別的な蔑称のように感じられる、と。
私は「ほぅー」と思う。
一般論としてゲイの話ができるゲイもいるし、性全般の話題に過敏になるゲイもいる。LGBTではないストレートな人だって、性全般の話題に過敏になる人だっている。セクシャルハラスメントは、言った側の侮蔑意識の有る無しの問題ではなく、言われた人が侮辱だと感じたらその時点で成立する。そういうものだ。
要するに(大きくまとめることは間違っているかもしれないけど)、差別はその人の一人一人の問題だ。
差別する人は、LGBTだけでなく、全般を差別するのだ。
他のマイノリティや外国人や、髪を染めた若者や貧乏人や高齢者や女性や病人や障碍者や、…、あらゆる人に対して、潜在的に偏見を持ち差別している。イスラム教徒とみたら、その人が持つイスラム教徒のイメージが現実より先行する。相手の細かい宗派も知ろうとせずに、テロリストだったらどうしようと考える。「差別」ではなく「区別」と言い換えるのかもしれない。線を引いて、分けているのだ、歪んだ一般論を振りかざして。
キタナイ、リカイデキナイ、トクニナラナイ、という気持ちは、拭えるのだろうか??
果たして。
LGBTの人たちは、レインボーカラー7色を身につけることで、自分はLGBTであると表明することができる。
私はこの番組で初めて知ったのだけれど、レインボーカラー6色を身につけると、自分はLGBT当事者ではないけれど支援者であることの表明になるらしい。アライ、アライさん、と呼ばれる。当事者がカミングアウトしなくても、差別的発言を抑止したり、相談にのる用意があることを示す。
私は「ほぅー」と思う。
誰だって、一人一人なんじゃないかな
番組に出ていた、ありふれた感じのLGBT当事者の人たちは言った。
必ずしもカミングアウトすることが幸せになる道ではない
友達や家族など、自分に近しい人、大切だと思う人ほど、打ち明けることは難しい
カミングアウトするよりもした後のことを考える。打ち明けられた相手の人たちが、どう受け止め、その受け取った後のバトンをどうするのか
自分自身であるために、それは(カミングアウト)必要なことなのか
私たちはありふれている。
一人一人、ありふれている。