大学のゼミの先輩が「詩人」になっていた。Wikipediaに本名で載っていて、写真も相応に歳を重ねていた。
そのゼミはアメリカ現代詩のゼミだった。
卒論必須&春と夏の合宿アリの、わりとちゃんと研究する部類の体裁のゼミだったのだけれど、なにせ「アメリカ現代詩」ちょっと飛んでる感じの人が集まっていた。
卒論のテーマはボブ・ディランとかヒッピー文化とかブコウスキーなんかが多かった。ビート族は外せません。ギンズバーグ、スナイダー、ウィリアムズ、バロウズ、…、研究しても「だから何?」と後ろから詩人達にドヤされそうだ^_^
合宿していても夜中に騒ぎ過ぎて先生が「静かにしろー!」と怒鳴りこんでくるようなゼミ生達であった。
先輩達の約3分の1がカンニングして落第していた。
私達の代は卒論提出に約半数が間に合わなかった。
落ちこぼれではないハズなのに、純粋な私達は「自由」に毒されてしまったのだろう。。。。
いつだって先生は目をキラキラとさせ詩について語っていたけど、私達はどよ〜んと侵食されていた。先生がアガれば、私達はサガっていた。
職業詩人のその先輩は、先生と同じく、目をキラキラとさせていた。
そういえば学生の身分の頃から「現代詩手帖」という雑誌に原稿を寄せていた。誰もそれをスゴイコトとして扱っていなかった。
今、思えば。
彼は優等生すぎた。
彼は批評ができるけど、パフォーマーとしては軽かった。もっと経験値の高い人ばかりで、彼の言葉は上滑りだった。
観念でしかなかった。
他の先輩達や同級生の卒論発表は、もっと独走的(独創的ではなく)だった。
大概、先生に怒られていた。
肩をすくめてやり過ごしていた。
一体、何を学んでいたのだろう??
ある意味詩を体現していた先輩達は、今はどうしているだろう?執筆活動を続けてらっしゃるだろうか?
……恐ろしくもある。。。
そうして批評が上手な先輩は職業詩人となった。
研究者や教育者ならともかく、詩人??
……それもまた恐ろしい。。。。
本当に詩を望むところの人には評価されないだろうなー
詩は、望む人のものなのに。
「この先、仕事がなくなることも、家がなくなることもあるだろう。
だが、ここに綴った風景達はきっと僕を殺したりしない」と書いた又吉直樹さん。
(言葉は自分を救うものではなく、)
言葉は自分を殺さないものなのではないか
なんというか、下着くらいの役割しかないと思う。