ハルキにまつわるエトセトラ。

  
  ハルキにまつわるエトセトラ

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  はてなブログでハルキさんが読者の質問に答えていて、気が向く度に読んでます。
  

  (ハルキさんを好きか嫌いか、と論じたり
  文学的か否か、と論じたり
  よくあるけど)
  批評と自分の創作活動は別、、、クールに割り切っているのに、ファンの質問にいちいち答えているので好感を持っている。
  

  私の場合「すごくファンという自覚はないけど、結構ファンなのかもしれない、もしかして⁈」という立ち位置です。

  文学ではとかく、何を、どのように語るか?問われる。内容と手法。
  ハルキさんはよく手法ばかりで内容が…、と批判されがちだけど、内容もアルといえばアル。ナイといえばナイ。
  
  フィツジェラルドのファンでありハルキのファンである人もあれば、フィツジェラルドのファンではないけどハルキのファンもおり、また反対にフィツジェラルドのファンではあるけどハルキのファンではない人もいる。また両作家ともファンではない、という人もいる。
  (そういうものなんじゃないかな)
  …と思うのが普通なんだと思う。

  ↑こういう(そういうものなんじゃないかな)は、ハルキ作品において決して裏切らない。
  怒濤の展開があったとしても主人公のテンションは落ちついていて、(そういうもの)を受け入れるので、本を読むようなヒトならば最低限のラインとして、すぐさま物語に入れるのではないだろうか。主人公「僕」が(そういうもの)を受け入れたなら、読者はそれを受け入れなられないのだとすれば、もうその本を閉じるしかない。
  読めるということは、それをわかった気になるものなのです。
  そういう仕組みなのかなー、と思います。

  そしてハルキさんは「技巧の人」に見えて実は「内臓の人」なのだ。(内容はではない)
  肌感覚が冴えているのか、欲を扱うのが上手いのか、目が良いのか耳が良いのか、詩人的な領域も絶えず発揮している。わからないコトはわからないとして突き詰めない。触感がわかるほど具体的に、周辺を上手に切り落とす。
  二度と読まないだろうと思う作品もあれば、何回でも読みなおすだろうと思う作品がある。それは単に材料の違いであって、切り落としの技巧はハルキさんらしさとして歴然として存在する。

  フィツジェラルドのような唯一無二の文学ではないかもしれない。
  どちらかと言えばありふれた、もっと些細で個人的な文学的経験の〈集積〉なのではないか、と思う。
  その〈集積〉はレイモンド・カーヴァーほど鮮やかではないかもしれない。
  (もっともっとささやかなこと)に対して、意識が向いているのかもしれない。
  

  内田樹さんはハルキさんのファンのようだ。内田さんもツルツルとよく言葉を操るけど、同じようにハルキさんもツルツルと言葉を操っているのではないか?
  内田さんが言葉によって思考するように。
  ハルキさんも言葉によって感じているのではないだろうか。



  ☆


  私の場合。
  すごくファンになってしまうと個々の作品の良し悪しはわからなくなる。

  未だに読んでいないハルキ作品はあるけど、日常のテンションの延長で読めるので(いつでも読める)と思っている。
  すごくファンなら新刊が出たらいそいそと読むところだけど。
  
  安西水丸さんはすごくファンなのでいそいそと読んでいる^_^

  最近はいしいしんじさんのエッセイもファンでいそいそと読んでいる^_^

  今、ハルキさん訳の『極北』マーセル・セロー、中央公論社、2012年。を読んでいる。おもしろい。

  ハルキさんは才能があると思うけど、うまいこと言えない。
  
  色川武大の短編集を夢中で読んだあとなので、尚更うまいこと言えない。

  ハルキ作品のどれが一番好きか?一番印象に残っているのはどの作品か?自分に影響を与えたか?と問われたとして、
どれもそんなに好きではないような気がする。どれも私に影響を与えてはいないような気がする。
  でも「うまく言えないけど、そういうことってあるよね」という体験の集積のように感じる。

  このブログのタイトルspring has comeは、『ランゲルハンス島の午後』から来てます^_^

  どうだ。

  (どうだって言われても……)