言葉は信じなくてもいい。

  何と言ってよいか、わからないけど。


  本当に助けが必要な人というのは、多分、「自分には助けが必要だ」という自覚が、ない。

  まだ大丈夫。と思っていたり、

  自分よりも悲惨な人は他にもっといると思ったり、  

  無思考状態になっていたり、

  他のことに集中していたり、

  単純に怯えていたりする。


  声に出して「助けて」という人は、助けてもらえる。助ける側もわかりやすい。


  気づいていない人こそ、ちょっとだけ、声をかけてみるべきだと思う。

  その人は自分の中に深く深く入りこんでいるだろうけど、落ちついて考えたら、戻ってこれることは大いにあるのだ。

  どんな風に何を伝えればいいか、わからないけど。

  何も変わらないことも多い。(だけど無意味なことだとは思っていない、私は)


  お金に換算できないプライスレスな気持ちが多いように、

  言葉に換算できないワードレスな気持ちも多いのだ。


  私たちは気持ちを言葉にして、整理して、わかったつもりになるけれど。言葉をうまく使えない人も、結構いる。

  言葉でうまく誤魔化したり。

  言葉で整理して仕舞いこんだり。

  言葉が出なくて黙り込んだり。

私は思う。その人が大事なのであって、言葉は大事ではない。

  言葉にしなければ伝わらない、と言う人もいる。さて。それはどうかな?私は大いに疑問だ。

  

  自分を支えた言葉というのもあるだろう。壁に貼って見つめるような(古い?)

  それでも私は言葉は使い捨てのように感じる。凝り固まるのを恐れる。もっと循環して、消費され、排泄されるものなのだ。言葉は気持ちから生まれるもので、新鮮であるべき。


  誰かを、何かを、自分を、本当にわかる時は、言葉ではない。言葉よりももっと未然にある無意識によって、それを発見する。

  一生懸命に言葉にしようとするけど、言葉に尽くせないことはある。尽くしても尽くしても、完成しない。影のように実態がない。

( だから咄嗟の無意識の行動を信用する)


  私が高校生の時に通っていた予備校の先生は、原則と例外という風に英語を説明した。原則の活用法、原則の活用型。例外の方が試験には出るから熱心に教えていたけれど、原則が大多数なのだ。

  今それを思えば。

  世の中、例外ばかりなのだ。

  原則が何だったのかわからなくなるほど、例外ばかりなのだ。わりきれないことばかりだ。いろいろな枠や法に不恰好にあてはめる。言葉によって。

  

  いろいろ考えてしまうと、気軽に声なんかかけられない。かける言葉が思いつかない。

  けれど内容よりも、声をかけようかなと思った人の気持ちが大事なような気がしている。

  タイミングとか。

  

  大事な言葉なんか、本当はない