震える犬。

  職場の隣りの席の人と、時々、飼っている動物の話をする。

  (飼っている)と言うけれど。

  我が家の猫は(飼われている)意識なんて全く無くて、私よりも上位にいる。猫なりのルールに、私は従わされている。


  隣りの席の人は犬を飼っている。

  聞けば聞くほどバカ犬だ。大きな雑種犬、秋田犬風。

  誰に対しても吠える。近所の人にも。あんまり勢いよく吠えて、近所の人が転んで怪我をしたらしい。

  食い意地がはっていて、雷が嫌い、鳥に対して本気で挑む、猿は怖いらしい、毎日川で泳ぐ、マムシに噛まれて顔を腫らしている。冬は寒いので家に入ろうとする。若干、受け口。下顎の、黒いゴムパッキンみたいな、犬の唇が、いつもはみ出ているそうです。志村けんのおどけた顔のように。

  飼い主に怪我をさせることもある。じゃれるつもりで、爪で引っ掻いた、とか。血が出た、とか。洋服が破けた、とか。

  (飼い主は日常的な怪我なので普通にしているけれど、慣れない人は驚く)


  私はダメ犬ダメ猫の方が好きなので、結構二人で盛り上がります。  

  すごく汚れて帰ってきたり、くっつき虫(棘付きの種、洋服などにもくっつきますね)をたくさん付けて帰ってきたりすると、「もぅー!」と言いながら綺麗にしてやります。


  バカでも、信じ切った顔で見られると、こちらは逆らえません。

  すやすやと眠っていると「バカでも幸せだね」と、こちらまで幸福になります。


  「昨日うちの犬ったら…」「昨日うちの猫が…」と私たちは話し始める。お互い、結構その話を楽しみにしている。いい写真が撮れた、と言って見せ合う。


  今日、彼女はいきなりスカートをまくり、太ももの内側を私に見せた。

  三筋ほど、淡く青くアザになっている。

  「どーしたんですか!」と訊いたら、犬を車に乗せたら怖かったようで必死に彼女のひざにしがみついたらしい。三十分くらいのドライブ?いやいや、ほんの数分。とのこと。

  犬に必死でしがみつかれるなんて、ちょっと羨ましい。アザは嫌だけど、いいなぁ、と思ってしまった。


  彼女の実父が、リンパ液の癌で二度目の入院をしていることは知っていた。


  実父の定期貯金や普通貯金を、実母名義に変えて準備していることも知っていた。

  「いよいよイケナイかもしれない」と昼休みに抜けて病院に行っていたことも。

  

 それで今朝は。夢に父が出てきた、と言っていた。「もう、歳も歳だし」と彼女は言う「順番なのだから、後がつかえる」と。明るく、サバサバと、「えぇいね」(もぅいい、という意味)と言い放つ。「夢枕ですね」と言ったら、笑いながら「まだ生きております」と答えた。


  それほど痛みのある治療ではなかったようだ。家族が、静かに終わるのを待っていた。


  私は夢の話を聞いたからではないけど、本当に、いよいよイケナイ予感がした。

  昼休みに、机を片づけて立ち去る彼女の背中が、少女の背中のように頼りなく見えた。


  夕方。病院からの彼女の電話をとったのは私であった。

  咄嗟に何と言ったら良いかわからず「大丈夫?ですか?」と言ってしまった。

  かしこまったお悔やみのフレーズが出ない自分に幻滅したけれど、、、このたびはまことにご愁傷様です、なんて言えたものではない。

  

  隣りの席でも、はるかに上司。

  仮に大丈夫じゃなくても、私に対して大丈夫じゃないなんて言わないだろう。


  それでも

  震える犬を抱く彼女の姿しか、私には見えなかった