四文字は難しい


  「えーっと、昨日さ」
  「うん」

  「えーっと、なんだっけな…点滴?…検閲?…検疫?…、献血!、献血したの」
  「は…?」
  「献血献血
  「…?」

  「血を抜くやつ」

  「なんべんも職員さんが献血のお願いに来るからさ。ノルマがあるみたいで。だから次長さんと仕事抜けて献血行ったの。最低でも18人11時までに要るんだって」
  「うん」

  「400mlとりたかったみたいなんだよね。体重は50kgあるか?ってなんべんも確認されて。400ml私初めてだったから緊張したし」
  「うん」

  「立ったまま倒れたら危ないからおかしいと思ったらすぐしゃがんでください。とか、無理してはいけない。とか、力仕事は控えてください。とか言われて。…ますます緊張して。でもイヤです怖いからやめますとかもう言えないじゃん」
  「うん」

  「だけどさ。その献血の後、全然フツーなんだよね。ちょっとくらいさー、貧血を感じたかったのに。か弱さアピール?」
  「うん。元気なんでしょ?いいじゃん」

  「ちょっとくらいそういうの無いとさ。アレでしょ。まるで血の気が多い人みたいじゃん」
  「いいじゃん。元気で。良かった良かった」


  〈献血をして貧血してみたかった話〉をしたかったのに、話出しで失敗して点滴やら検疫やら検閲やら言ってしまったから、なんだか聞き手の想像(期待)に応えられなかったようだ。

  点滴→病院沙汰
  検疫→家畜沙汰
  検閲→社会不適合沙汰

  
  「献血」がスッと出てこない私が悪い。
  「貧血」に憧れるのもちょっとおかしい。

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  血を抜くと、身体は軽くなるような気がする。
  医療が発達しても、血は作れない。
  誰かのために協力しましょう。
  

  軽くなった頭でも仕事はこなせる、日常は変わらず。

  普段から頭は軽いということだ^_^


  この世にし楽しくあらば来(こ)む世には  虫に鳥にもわれはなりなむ
生ける者(ひと)つひにも死ぬるものにあれば  この世にある間(ま)には楽しくあらな
                 大伴旅人万葉集』  ↑どちらも

  

 死を怖れることと生を楽しむことは、背中合わせですな^_^

先端を行く

  さぞかし。
  年度末で皆様お忙しいのだろう。。。

  地方に住んでいると(年度末)をすごく感じる。
  卒業・入学・就職・異動…。引っ越し。お祝い。引き継ぎ。

  「馴染みのモノが一掃される感」をヒシヒシと感じます。
  地方では、その場所の「顔」が入れ代わる。
  企業なんかも決まったモノしかないし、行政や地区の実力者たちはソワソワとしている。
  若者たちは巣立っていく。

  
  結局、人気とカネの世界。
  この土地で就職することを決めた私であるけど、地域貢献をホドホドにして、年度末を平和に迎えて、嫌われ者にならないように最低限にクチを慎み生活していこうと思う。

  ☆
  
  私がイチバン苦手な人種は、
  「地方しか知らない若者」

  何を考えているのかサッパリわからない。


  ジェネレーションギャップか?とも思うけど、
  変に保守的だし、変にヤンキーだし、、
  変に家庭崩壊している。

  変に冷めてる


  健全な20代・30代は、都会で就職しないまでも、旅行くらいは出るのではないか??

  福岡や大阪・兵庫くらいで満足してしまうのは、若者として保守的すぎると思う。

  (どんなに生活が保守的でも、仕事をバリバリとしていたら自然と外側の情報って入ってくるけどね)

  
  田舎根性は、成功しない。
  その見栄ッパリ、そのゴマカシ、…通用するのはココだけなのです。
  世界は拡大していて、価値観も拡大している。

  恥ずかしいことばっっっっっかりなんだから。
  若いうちから恥ずかしい場面をたくさん経験しておいた方が良い。

  

  新しく旅立つヒトにも、
  プライドを保ちたいヒトにも、
  情に流されカネ出すヒトにも、
  言いたい。
  大きな声で。

  世界は広いぞ!!

  よぉ〜〜〜〜〜〜っく、見やがれ!!


  コテンパンに叩かれなさい!!


  昔と今では勿論、時代が違う。やり方も違う。価値観も違う。
  今いる実力者たちは、前時代のツワモノドモです。
  昔のやり方を踏襲するばかりでは、今の実力者たちの顔色を窺うばかりでは、本当の「今の時代」から落ち零れます。

  昔のやり方を尊重しつつ、今のやり方を模索しなければ、お互いがお互いに歩みよらなければ、良い未来なんて来ないと思う。

  単に勝ち組負け組ではなくて、多様性の時代です。

  受け入れながら、変化しながら、勝ったり負けたりしながら生きていくしかないね^_^

  ☆


  すでに内示が出て遠くに異動が決まった人と、ゴハン&生ビール→焼酎お湯わりしてて、ボヤいてた。

  「淋しいー。話せる人が(どんどん)いなくなっちゃう!」
  
  彼女の新天地は高知の室戸岬
  「あたしなんかゼロだよゼロ!ゼロからなんだからね!」
  
  …そーです。すいません。その通りです。

  ゼロからの人から比べたら、私などマシだー

  「あたしはどーせ風の人。あっちから来て、こっちに行くの」
  
  「うーん。でも僻地が似合うなぁ。はじっことか、先端を行きそう!」
  
  「…先端??」



前足を揃える。


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  ちょーん!

  前足を揃えて家の中を伺う牛夫くん。
  …あんた、うちの猫じゃないんだからいくら礼儀正しく待っていても入れてあげられないよ。

  茶色の猫も灰色の猫も、窓越しにこちらを見ていた。人が気づいて、窓を開けてゾーキンで拭いてやらなければ家の中には入れないルールです。
  何故、うちの飼い猫のフリをするのだろう、牛夫くん…

  首輪をつけているから、絶対に何処かの飼い猫のハズだけれど…

  車で移動中に牛夫くんを見かけることがある「あんた、こんな所まで…!」

  言っちゃあナニだけど
  「猫格」が違う。スケールが違う。
  
  初めは迷い猫だと思った。
  愛嬌たっぷりで、美猫だ。
  茶色の猫は虚勢されていたけど、オスとしてテリトリーを守っていた。つまり威嚇して追い出そうとしていた。
  灰色の猫は上品すぎて曖昧な態度だ。

  庭を我が物顔で歩く牛夫くんに強い態度で出られない。
 
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  ヤッホー、牛夫くん、元気?とナデナデする私。隙あらば中に入ってやろうと企てる、狡猾な牛夫くん。ナデナデされながら気を許さないなんて、、、あんた、やっぱり只者ではない…!

  カワイイけど精悍だね。オスだね。大人だね。、、、

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  虚勢をはる灰色猫。

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  後ろにちゃんと私がいるか確認する猫。

  猫っていろいろですねぇ。


  牛夫くんには知恵も勇気も体力も、猫としての愛嬌もある。
  灰色猫の処世も、それはそれとして見届けてやりたい。勝てない相手とどう向き合うのか?


読書と私。


  『極北』マーセル・セロー、村上春樹訳。中央公論社。2012年。


  読み通しました。面白かったです^_^


  マーセル・セローは高名な旅行作家ポール・セローの次男で、ウガンダに生まれてシンガポールに移り、英国に戻りケンブリッジ大学に入り、イエール大学に留学し、ソビエトと東ヨーロッパを中心とした国際関係を勉強した。テレビに出演し、ロシア関係や環境問題のホストを勤めた。

  彼自身のイントロダクションによれば、彼がこの小説を思いついたのは、2000年の12月、ウクライナ旅行の時である。

  彼はその時、チェチェンの首都を現地取材し、まだ混乱の中にあるアルバイジャンとウズベキスタンにも赴いた。チェルノブイリ近郊に住むガリーナという名の女性を取材した。

  ガリーナは原発事故現場から半径三十キロ圏内で、勝手に故郷に戻り、勝手に農業を営んでいた。牛や鶏を飼い、放射能に汚染された土地でキャベツを育てていた。

  

  物語の主人公も豪胆で自立しており、有能で惚れ惚れとする。実際的で具体的でかっこいい。

  反面、弱さもあり感受性も強い。


  残酷な場面もあり、感傷的な場面もある。


  「生き抜く」ために語り、残していく言葉なので、非常に強い。


  自由であること。自立すること


  主人公は不自由な環境に置かれ蹂躙され傷を負わされるので、彼女自身の美しさや、それを守る勇気・自尊心みたいなものを見せつけられます。

  自由とか美しさなんていうのは随分と抽象的だけれど。 

  …物語は随分と具体的的に進んでゆく。

   

  生きることは、戦い。

  優しさや弱さもあるけど、それは文明や文化なのです。文明や文化を守るために、生活があって。生活は戦いなのです。

  生活は文化に憧れ、文化は生活に対し無益なのです。

  強い彼女は、物語の最初から最後まで変わらず、文化や感傷に抗いがたく惹かれていました。

  生きる意味や生きる目的となっていた。


 調律の狂ったピアノラ

  蔵にしまわれ読まれることのない書物

  墜落する飛行機

  正しい父親

  死んでしまった赤ん坊


  憧れて、大事にしまわれている無用の美しい思い出。

    生きていくために切り捨ててしまったらどれほど楽だろう。

    

   主人公はそれらを捨てられない。

  私は捨てられない主人公を愛する。


    捨てられないのがヒトだよな、とすごい勢いで迫る物語です。

  退屈を紛らわす読書ではなく、極限を生きる人が読んでも何か思うことがありそうな一冊。

  

  無意味なものに意味を持たせるような

  弱さを強みに変えるような

  ミラクルな一冊。


  こういう読書体験は本当に貴重だと思う。


  世の中に本はたくさん溢れているけれど

  自分に正しいタイミングで正しい本に巡りあえたことを感謝したい。


  こういう貴重な読書体験は全ての人に訪れてほしいと思うけど、その正しいタイミングと本は巡り合わせだと思うので、いつそのタイミングが訪れても良いように慎重にコンディションを整えておくべきだと思う。

    




ハルキにまつわるエトセトラ。

  
  ハルキにまつわるエトセトラ

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  はてなブログでハルキさんが読者の質問に答えていて、気が向く度に読んでます。
  

  (ハルキさんを好きか嫌いか、と論じたり
  文学的か否か、と論じたり
  よくあるけど)
  批評と自分の創作活動は別、、、クールに割り切っているのに、ファンの質問にいちいち答えているので好感を持っている。
  

  私の場合「すごくファンという自覚はないけど、結構ファンなのかもしれない、もしかして⁈」という立ち位置です。

  文学ではとかく、何を、どのように語るか?問われる。内容と手法。
  ハルキさんはよく手法ばかりで内容が…、と批判されがちだけど、内容もアルといえばアル。ナイといえばナイ。
  
  フィツジェラルドのファンでありハルキのファンである人もあれば、フィツジェラルドのファンではないけどハルキのファンもおり、また反対にフィツジェラルドのファンではあるけどハルキのファンではない人もいる。また両作家ともファンではない、という人もいる。
  (そういうものなんじゃないかな)
  …と思うのが普通なんだと思う。

  ↑こういう(そういうものなんじゃないかな)は、ハルキ作品において決して裏切らない。
  怒濤の展開があったとしても主人公のテンションは落ちついていて、(そういうもの)を受け入れるので、本を読むようなヒトならば最低限のラインとして、すぐさま物語に入れるのではないだろうか。主人公「僕」が(そういうもの)を受け入れたなら、読者はそれを受け入れなられないのだとすれば、もうその本を閉じるしかない。
  読めるということは、それをわかった気になるものなのです。
  そういう仕組みなのかなー、と思います。

  そしてハルキさんは「技巧の人」に見えて実は「内臓の人」なのだ。(内容はではない)
  肌感覚が冴えているのか、欲を扱うのが上手いのか、目が良いのか耳が良いのか、詩人的な領域も絶えず発揮している。わからないコトはわからないとして突き詰めない。触感がわかるほど具体的に、周辺を上手に切り落とす。
  二度と読まないだろうと思う作品もあれば、何回でも読みなおすだろうと思う作品がある。それは単に材料の違いであって、切り落としの技巧はハルキさんらしさとして歴然として存在する。

  フィツジェラルドのような唯一無二の文学ではないかもしれない。
  どちらかと言えばありふれた、もっと些細で個人的な文学的経験の〈集積〉なのではないか、と思う。
  その〈集積〉はレイモンド・カーヴァーほど鮮やかではないかもしれない。
  (もっともっとささやかなこと)に対して、意識が向いているのかもしれない。
  

  内田樹さんはハルキさんのファンのようだ。内田さんもツルツルとよく言葉を操るけど、同じようにハルキさんもツルツルと言葉を操っているのではないか?
  内田さんが言葉によって思考するように。
  ハルキさんも言葉によって感じているのではないだろうか。



  ☆


  私の場合。
  すごくファンになってしまうと個々の作品の良し悪しはわからなくなる。

  未だに読んでいないハルキ作品はあるけど、日常のテンションの延長で読めるので(いつでも読める)と思っている。
  すごくファンなら新刊が出たらいそいそと読むところだけど。
  
  安西水丸さんはすごくファンなのでいそいそと読んでいる^_^

  最近はいしいしんじさんのエッセイもファンでいそいそと読んでいる^_^

  今、ハルキさん訳の『極北』マーセル・セロー、中央公論社、2012年。を読んでいる。おもしろい。

  ハルキさんは才能があると思うけど、うまいこと言えない。
  
  色川武大の短編集を夢中で読んだあとなので、尚更うまいこと言えない。

  ハルキ作品のどれが一番好きか?一番印象に残っているのはどの作品か?自分に影響を与えたか?と問われたとして、
どれもそんなに好きではないような気がする。どれも私に影響を与えてはいないような気がする。
  でも「うまく言えないけど、そういうことってあるよね」という体験の集積のように感じる。

  このブログのタイトルspring has comeは、『ランゲルハンス島の午後』から来てます^_^

  どうだ。

  (どうだって言われても……)




ある日の桜と梅。


  昨日の話。
  朝寝坊して8時半。晴れて風もなかったので、庭の桜の木を剪定した。
  隣のよっちゃんに3m三脚を借りる。

  よっちゃん(70オーバーの男性)は、コンバインやその他色々を所有し米を作っている。息子が2人いるが、同居はしていない。収穫時期だけ手伝いに来るようだ。

  よっちゃんから「ワシがやっちゃろうか?」と申し出を受けるも、
  「いえいえ。私、自分でやってみたいんです^_^」と断る。
  「お宅のはなぁー、カタチが膨らんでるから頭の方を止めんにゃあいけん。伸びすぎ。モトから切るとええよ」
  、、、、桜って、のびのびと枝を伸ばすものだと思うけど…^_^
  ありのままの自然のカタチを少し整える程度は弱剪定。それはそう。
  
  よっちゃんちの庭木は丸太のように真っ直ぐに、小さく小さくなっている。強強強・強剪定。

  (松の枝を整えるのは勿論職人芸。春と冬と年二回整える。松の木一本に一人がかかりきりになるのが普通。松の手入れはお金がかかります)
 
  桜木剪定、手順。
  まず
  1. 内側に伸びた枝を落とす
  2. 平行に重なっている枝を落とす
  3. 株根元から出ている枝を落とす
  その後
  1. 勢いのある元気な枝を落とす
  2. 太陽側が伸びやすいので、太陽側を強めに落とす
 あとは樹形を整えるだけ。

  剪定は楽しい。
  考えなくていいからか、スッキリするのが気持ちいいのか、変なアドレナリンが出てきてハイになる。
  枝を落とすたびに「おっしゃー!」と言ってた気がする。一度木から落ちたけど大丈夫だった、ヒトは夢中に働いている時は何かに護られているのかもしれない。
  勢いのある太い枝を間引くと、木の雰囲気が変わる。
  美容師さんがお客さんをイメチェンさせ、かつ似合う髪型に変えていくような快感ですかね?
  余計な部分を落としていけば、素の良い部分が際立ってくる。

  「おっしゃー!」「おっしゃー!」と調子に乗って切っていたら、なんだか桜が寒々しくなってきた。
  「?」
  「あれ?違う枝を落としたかな?」

  木に登っている時はどの枝だったか迷うことがあるので、たまに降りて離れた位置で木を眺めます。

  うん。
  枝落とし過ぎ。
  我知らず、強め強めな剪定になっていた。
  よっちゃんの評価は去年より良いに違いない。

  桜の剪定時期は本来は冬
  私が切り落とした枝には、小さな小さな花芽がたくさんついていた

  

  ☆

  こちらは梅。山口市の古熊神社です^_^
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  梅の香りはしたけれど、まだ満開ではありません。

  満開よりも開き始めの梅が好き
  
  ^_^


千本ノック。

  狂った時計のような私の直属の先輩、、、、無責任な発言を繰り返して、高圧的で反抗的な態度をとるものだから、以前から上司の評価は低かった。
  「なんじゃこの人⁈」と生理的に驚くし、優先順位が無茶苦茶だし、話ができないし、共に仕事をするのに最大のストレスだった。
  不愉快だし理解できないし時間かかるし、結局正解なのかどうかわからないから不安だし、責任をなすりつけるし。
  人としても好きになれない。ケチで見栄っ張り、表裏があって、意地悪。
  
  大人げなく私にトゲトゲしく言葉を投げるので、周りが眉を顰めている。

  人の好き嫌いは関係なく、仕事は仕事。
  相性が悪いでは片付けられないから、私はなるべく「落ちついて」話そうと心がける。
  「ちょっと整理させてください」と何を言おうとしているのか正す。それでも彼女はゴールなんてちっとも見えてなくて、5センチ先のコトしか見ていない。

  なので、やった作業だけ結果確認する。次にやる作業だけ指示する。
  
  それでも「何してんの?」と思う事がある。「何がしたいの?」

  
  このたびワタクシ正社員になることになりまして。至らぬことばかりですが。まだ身分はパートなのですが。
  彼女を差し置いて担当者会議などに参加している。
  本所の人も彼女を通さずに私に電話をかけてくるようになった。

  私は担当者として彼女にも連絡事項注意事項を落とす。伝えるのが責任だし義務だし。彼女は私にまで情報は落とさなかったけれど(伝えられない事ばかりだった)
  
  んー、でも。

  なんか立場が逆転した今の方が、この人幸せそうだな、と思う。
  多分、見栄っ張りだからこういう風にしか話せないのだろうけど。完璧主義というよりアゲアシトリなだけ。筋立てて計画したり、指示出したり、説明したりできないのだ。
  皆で協力するのも苦手。マンツーマンで指示するしかない。
  ある意味〈見えない・聞こえない人〉なのでハンディキャップの扱い。
  
  多分これからもっと、先輩ヅラして「自分でやって」と私に仕事を投げてくるだろう。自分がやりきれない仕事を押し付けてくるだろう。

  でもできないまま抱えこまれるより、よっぽど良い。

  私自身は、頭の上に乗っていた漬物石がやっと取り除いてもらえたような解放感!!である^_^
  いいよいいよ、どんどん投げてごらん。
  
  千本ノックしてるみたい^_^

  
  お互いの幸福のために
  自分を鍛えるために
  千本ノックを思う存分にやりたい心境であります。。。