言葉の癖。

  もうみてないけど、朝ドラのアキちゃんが流暢な方言を操るのに、ものすごく違和感があった。ネイティブスピーカーのように話すけど、もともとは関東出身という筋書きで。彼女が標準語をすぐに捨てられるのにも驚く。ラジオもテレビも標準語なのだから、ちょっとしたキッカケで標準語って湧いてくるのじゃないかなぁ。そりゃあ、アキちゃんの言語センスが高かったのだと思うけど。東京に戻ってきて標準語に囲まれて自分も関東出身なのに、ネイティブ東北弁の相手が周りにいないのに付け焼き刃の東北弁を貫けるのは、どういうことなのだろう?と不思議に思う。アキちゃんが標準語を嫌いだったのだとしても、そんなに簡単に言語をスイッチできるものだろうか?


  私は関東から山口に引っ越してそろそろ一年だけど、若い人の方言ならともかく、老人の方言はよくわからない。ひとつの言語を新たに修得するのに近いのではないかと思う。聞きとりも難しい。音とリズムがたくさん体の中に入らないと、訛れない。しかも相手が山口弁でなければ、私の山口弁は出てこない。ひとり言は、標準語だ。

  まぁ、日本人のくせにペラペラとアメリカ英語(もしくはイギリス英語、オーストラリア英語)を話す人もどうなの?と思うタイプなので、私は日本語訛りの英語を話します。発音記号の通りに話そうと心がけたら良い、それ以上でも以下でもなく。インド人はインド訛りの英語を話す、中国人は中国訛りの英語を話す。日本人が殊更にソレッポク話しているのをみるとゾッとする。アー、ハァーン、と相槌うつのとか。ン、フン。ぐらいでいいのだ。もともと、うんうん、はいはい、の民族なのだから。何十年もその土地で暮らしたとしても、ソレッポク英語を話さない人の方が信用できる。ソレッポイ人は、日本人を捨てている感じがして外国人のようだ。外国人からしても日本人のようには見えないだろう、二世とか三世とか、そういう風に見られているのではないか。

  というわけで、私は言語に関して硬いのです。気になってしまう。


  NHKの大河ドラマをずっとみているのだけれど、明治になって、方言ってどのように扱われるのだろうと気にしている。


  八重さんはずっと会津弁だ。

  八重の母も。覚馬さんも。


  京都の訛りは、どうにも受け入れられないのだろうか?


  譲さんは標準語だね。


  そういえば川崎さんも標準語だった。川崎さんは関西の出身だったような…どうなんでしょう?

  けれど川崎さんは、周りは会津弁で彼は違う言語、というのが妙に説得力があった。会津弁を話さない川崎さん〔だから〕良かった!(これは絶対だ)最後の戦の場面で、彼が少し訛ったのを憶えていますか?私は憶えています!


  西郷さんはいつでもどこでも鹿児島弁のような気がするし、坂本竜馬(今回は出てないですけど)いつでもどこでも高知弁のような気がする。変えないよね、変える気がしない。


  アメリカ英語を学ぶ人たちとイギリス英語を学ぶ人たちは、発音が違う。


  江戸弁と標準語も違うだろうし。


  そこまで言い出したら、申し訳ないような気もするけど。

  明治の言語って、すごいことになっていたはずだ。相当に。

  

  少なくとも。八重さんは会津弁だけではなく、もっと柔軟な言葉を使っていたのではないかなぁ。


  譲さんのきれいな標準語も違和感があるのです。賢い人だったのかもしれないけど…。密航した人には見えない。アメリカっぽくもないし。


  歴史ドラマをみる楽しみは、そういう空気感を味わうことにもある。当時のファッションや食べ物や建築をみるのと同じように、「当時はこんな風だった」という説得力みたいなものがほしい。

  交じりあって新しくなっていく様を表すには、難しいだろうけど、変化していく言語があると格段に説得力があると思う。

  (方言指導員の人々は頭を悩ますでしょうね)

  

  たかがドラマ。ですけどね。

  嘘っぽいとみたくなくなってしまうという視聴者のワガママもありまして。ここらへん読書とは違うところ。方言は聞きづらいけど標準語では物足りない、読書だと方言が読みづらい、という事はない。地方だったら方言が当たり前、標準語はありえない。

  

  言語というのはかなり深層の文化であると思うのです。