手鏡としての本

f:id:sprighascome:20130326233147j:plain私たちには出会いがある。


 出会うべくして、出会うのである。


 例えば読書。

 私が高校生の頃、国語の教科書にあった小説や詩は魅力的であったか?

 それはそう。梶井基次郎や芥川や高村光太郎は高校生向きであり、教科書で出会うのもよいだろう。

 大学の長い休みの頃に中上健次を読んだ。坂口安吾を読んだ。それはそうだろうと思う。

 古井由吉庄野潤三は好きだったけれど、憧れにも似たような、背伸びしている気がしていた。

 私個人にしても、一人の作家に出会うのに、出会うべき時期というのがある。高校生の頃よいとしていた作家を今もおもしろいと思えるだろうか?また、宮沢賢治石川啄木中原中也を高校生の頃によいと思えなかった私が、これからいつか出会うことができるのだろうか?

 あるかもしれない、と思える。

 

 本を読んでいて、本当にダメだと思うものはあまりない。本質的に合う合わないはあるだろうけど、時期が合わないというだけな気がする。


 作家にしたって、変化していく。大江健三郎のように。若者から大人へ。テーマからテーマへ。


 読むのが早かったかもーと思うものもある。青くせーと思うものもある。


 (本が人を豊かにする)とか(本が人に影響を与える)とか、私は信じていない。

 単に本は鏡であって、自分自身しか映さない。

 成長すれば成長した自分、怠惰であれば怠惰な自分が見えるだけである。

 時折、思ってもいない自分が鏡に映し出されてビックリするのである。

 はたちの女の子が、中上健次の本をおもしろいと思えるのは、中上健次がすごいのであるけれど、はたちの女の子は同情できた自分に驚くのである…。

 

 若いうちにたくさん本を読め、と人は言う。

 果たして自分たちはどうだったか?

 教科書の芥川でもよいけれど、長い休みに自分で暇を持て余しなんとなく出会うものが最高であり最良ではなかったか?


 高校生の私は 「カラマーゾフ兄弟」を読み終えた直後、どうしただろう?えー、と思って、隣に人がいたら、えー、と言わなかったか。

途中 おもしろいと思ってどんどん読み進めて、最後の終わり方がえー、と思ってしまったのだ。

 もっと大人になって読めば、えー、と言わない自分もいつかいるかもしれない。すごいのはわかる。だけど。

 

 出会うべき時期というのは多分あって、若い人に川端康成は勧めてはいけない。若い人が川端康成の良さがわかるような気がしない。


 リチャード・ブローティガンをカッコいいと思っていた若い自分は、もういないけど、昔カッコいいと思っていたブローティガンは本としてそこにあり、あるのである。

 

 だからといって教科書には載っていない。


 まあ、どうであれ。

 媒体として本は、その時の自分自身を映しだすという点で、すごいのだ。

 

 無意味なものから意味を見いだすように、私たちは運命をたどり、言葉に出会う。