たとえば、シュレッダーにかけられた文書を復元することはできなくても、裂かれた膨大な紙屑の山の中の小さな一片に残された文字を見つけただけでわかってしまうことってある。そこに書かれていたもの、伝えたかったこと。
たくさんの言葉を聞き漏らし、たくさんの合図を通り過ぎてきた。たったひとことから得られる情報など、取るに足らない量だろう。だから正確にいえば、わかった、という閃きも錯覚なのかもしれない。それでも、私たちはそこで何かをつかむ。大切なことを知る。ほんとうは私たちが手にした以外の部分が重要だったとしても、どこに何が書かれていたとしても、いちばん知りたいことに私たちは出会うんだと思う。
「窓の向こうのガーシュウィン」宮下奈都、集英社。2012年。
「思い込み」とか悪い意味で使うことあるけど、思い込みをさせるほどの合図など、私たちは足りてないというか。遠慮しあって清潔に踏み込まずにいるのではないか。
なんの先入観もなく、出会えることは楽しい。
うまいタイミングでうまく出会うことは、難しい。
こないだチェコ好きさんの「想像力の向こう側」という記事を読んで、それはそうだと深く頷いたのだった。
(記事の中に出てくる彼は銀座の料亭で贅を尽くしている自分を上手く想像できない。知っていることしか想像できない。想像できないことは実行できない。翻って自分の事も。自分だったらこうするけどなーという案も、ある人からすれば「え?」と思われてしまうほど想像力に乏しいアイデアかもしれない、だからまだ知らないことを悔しいと思う。そして既に自分が知っていることは尊いと思う。そんな内容)
果たして。
自分は、どれだけ知らない事に対してオープンだろう?
食とか旅とか経験とか、興味を持ちやすい分野だと思う。そのジャンルの中でなら「知らないことに出会うこと」は簡単だ。知らない料理や知らない国はごまんとある。
あまり馴染まないジャンルでも、性とか死なら興味がわく。精神病、戦争、政治、宗教、差別。文学では、ギリギリのラインに迫るものもあって。病める罪悪感も少なく疑似体験することができる。文学だけでなく、映画やドキュメンタリなら、生々しく、または生々しくなり過ぎず、想像することができる。
想像力を超えて体感してしまうのは、ちょっとアブナイ。
でもやっぱり。
わかりたいんだと思う。
わからないことに対して積極的にわかりたいと向き合うことは難しい。
自分でわかる範囲の想像力の中でしか選ばない。
全くわからない中で、人は楽しむこともできないし、受け身でしかいられない。積極的になれない。
従順に受け身で経験を積んだとして、本人に達成感はあるだろうか。
オープンなのは最初の一歩だけ。
最初の一歩で手ごたえがなければ、興味を失い、ただの壁になるだろう。道ですらない。何の奥行きもない景色になるだろう。
閃きも錯覚もなく情報だけを操って、
出会いをやり過ごしていくのだろう。
時間は圧倒的に足りないのかもしれない。
でもゆったりと。
誰かの言葉に耳を澄ませることができる自分でありたい