写真テレパシー。

  写真は撮るのが好き、みるのが好き。撮られるのは苦手、整理するのが苦手。

  

  風景写真は苦手、本当は人物写真が好き。風景写真でも、キマッテイルのは好き。人物写真は、中途半端なものが救い難い、苦手。


  (掛け値なし)の笑顔が、くっきりと映しだされたものは、否定できない。カメラのこちら側にいる人もきっと笑顔になっているような。カメラを介して、どんな言葉を交わしただろう。モデルの視線がピタリと逢ったまま、瞬間を捉えた写真は、(永遠)のように思える。モデルとカメラマンの信頼関係をみるようで、私はそれを否定できない。


  梅佳代の『じいちゃんさま』は、彼女の言で「じいちゃんを長生きさせるために」つくられたそうです。(じいちゃんさまがカメラを構えている写真もあるのですが、じいちゃんさまは季節が変わるたびに庭の写真を撮るそうです。この十数年、奇跡的に全部同じ写真だそうです)

  でも、そのような私的な理由の、私的な写真でも。私的な写真ならではの、じいちゃんさまの、特別な表情が忘れがたい。


  人物写真でも、自意識をしっかり映すものと、無為をしっかり映すものに分けられる。カメラをしっかり意識させるものと、盗みとるようにかすめ取るもの。どちらがどう、というアレはないけど。私は正々堂々と向き合うものの方が落ちつく(好き嫌いだと思いますけど)

  油断したその人の素顔は、色気かもしれない。

  でも(写真を撮られている)と意識しているその人の顔の方が、好きだ。


  そういう意味で、家族写真や記念写真は、どんなにふざけたものであっても厳粛な気持ちになる。

  どれもこれも輝いてみえる。


  写真というものは、ひとつひとつが記憶のようなもので。

  確かにそれは私の目線なのだけど、どうもハッキリとしない。

  撮るそばから、嘘をついてるような歯がゆさが…。


  北海道に住む友達のところに遊びに行った時に。ちょうど冬の知床で、流氷が来ていた。私は彼女にカメラを向けた、すると彼女は「流氷とワタシ」と言ってポーズした。

  私たちはそれを気にいって次々と「流氷とワタシ」と言いながら写真を撮った。その空気感が楽しいし、思い出なのだ。記念写真って、そういうものだ。⚪歳のワタシ、何処に行ったワタシ、⚪するワタシ。


  思いきり、変な場所で

  思いきり、変な組み合わせで

  とびきりの笑顔の


  そういう人物写真がいいなぁ。


  でも、親密な場所の親密な表情の誰かの写真でも、親密な空気感にきゅんとする。

  

  突き放した場所の突き放した表情の誰かの写真でもいいけど。それはあまり、写真してない。


  植田正治という写真家は、「撮りたいものしか撮らない。いや撮れない。写真することがとても楽しい」と言った。また「ふわっと前に行って撮っただけです」とも。

  私は、写真する、という彼の言い方がとても好きだ。


  その人を撮りたい、と思う時。

  それは、どんな瞬間ですか