待っている、水曜日。

  思い込み、偏見、、、、

  なるべく先入観を持たずに新鮮な気持ちで、それぞれに出会いたいと思っている。

  パッと見て。パッケージやファッションで、中身を判断してしまうことは多いけれど。なるべく知らない振りをして、待っている。


  勿論、知りたくて自分から動く場合もあるけれど。

  相手にもペースがある。自分にもペースがある。


  出会うものとは、必ず、やって来る。


  必然の道程で、私はここまでやって来た。

  必然の道程で、出会う相手もここまでやって来るだろう。


  運命論ではない。偶然のように選ばれた道も、私は無意識に選んできた。

  例えば何歳の自分がピークだったのか?すぐに答えられる人は、進まずに振り返る人。ピークを決めたのは、やはり自分。ピークはまだ来ていない、そう思う方が健全だとは思うけど、登り坂はキツイです。転げ落ちるのは一瞬だし。ココがピークだ!と見晴るかすのは気持ちが良いかもしれない。さてね。其処はピークか?

  

  十代には十代なりの、二十代に二十代なりの、三十代には三十代なりの、気楽さや辛さはある。

  年上の女性が「四十代になったら楽になった」と三十代の私に言った。もう選ぶ必要がない、迷わずにすむ、と。確かにそう。自分の化粧の仕方を覚える。ある人はスッピンで勝負するし、ある人は化ける、ある人は装う。

  

  一年生になったら友達100人できるかな、という歌があったけれど。

  あの歌は結構恐ろしい。

  100人できなきゃいけない気になるし、そもそも友達って「できる」ものなの?「つくる」ものでもないだろう。友達って、出会うものだと思っている。

  

  自分が迷わなければ出会う


  五十代になれば五十代なりの、六十代になれば六十代なりの、七十代になれば七十代なりの、気楽さや辛さがあるのだろう。

  ある人は若い振りをする。

  ある人は老成した振りをする。

  

  誕生日が来るたびに、あれ私いくつになるんだろう?と迷う。実年齢を忘れてしまう(実年齢を忘れてしまいたい^_^)それが好い事か悪い事か、判断しなくてもいいと思っている。

  老人は私を孫をみるように見る。子供は私を親と比べる。孫の振りをするのも親の振りをするのも、嫌だ。相手が先入観を持つのは仕方がないとしても、私は1人のあなたとして接したい。それを許してほしい。

  (人生経験)という時は、大抵は苦労を指す。苦労した人は疲れている、敏感になっている。けれどだからと言って、飄々と話す人、淡々とこなす人が傷ついていないかと言ったら、そんな事はない。傷は個人的なものだから、客観的に計る事はできない。それを忘れてはいけない。


  若い振りも老成した振りもしないで、実年齢も忘れて、1人の私として待っている

  それからいろんな話をしよう