逆らえぬ感情には従うがいい
それが束の間のものであろうとも
手をとらずにいられぬときには手をとり
目の前のひとの目の中に覗くがいい
哀しみと呼ぶことで一層深まるひとつの謎
生まれ落ちてからこのかたの日々のしこり
そのひとしか憶えていない黄昏の一刻の
闇に溶けこむ暗がりにうつるあなた自身を
一人がひとりでしかありえぬとしても
私たちの間にはふるえる網が張りめぐらされていて
魂はとらえられてもがく哀れな蝶
だからときとしてみつめあうしかないのだが
どんな行動も封じられているその瞬間に
かえって私たちは自由ではないのか
慰めの言葉ひとつ浮かんでこないからこそ
心はもっとも深い水脈へと流れこみ
いつか見知らぬ野に開く花の色に染まって
大気のぬくもりへと溶けあうだろう
☆
二十行の木
1角ぐむもののいちいちに微風の指は触れて
2影のうちにこそあるいのちの発熱
3誰が教えたのか垂直に立つことを
4他と似るのを少しも恐れずに身を寄せあい
5大気のぬくもりへと滲み出る地の和毛
6名づけ得ぬ緑の諧調を目は喜んでたどる
7戦いよりも巨きなもののために号令を待つ
8決して煽動の効かぬ静かな群衆
9暗闇から立ち上がるのだいのちあるものは
10どんな鐘がきみたちを隠された水へ誘うのか
11林の中にいると心がからだになじんでくる
12空へ溶け入ろうとしてふるえているーー色
13その色の秘めている透明を探りつづける
14木々もまたかけがえのない経験を生きる
15一本一本の木にくちづけしてから死にたい
16これが楽譜ならその音楽を聴きとる耳は?
17鏡をもたないから立ち姿それぞれに美しく
18天を目指す力のなんというあどけなさ
19もうそれ以上美しくなってはいけない
20この地上で木とともに生きるこ恵み
☆
あなた
あなたは私の好きなひと
あなたの着るものが変わって
いつか夏の来ているのを知った
老いた犬がものうげに私たちをみつめる午后
ひとっ子ひとりいない美術館へ
古いインドの細密画を見にいこう
菩提樹の下で抱き合う恋人たちはきっと
私たちと同じくらい幸福で不幸だ
あなたは私の好きなひと
死ぬまで私はあなたが好きだろう
愛とちがって好きということには
どんな誓いの言葉も要らないから
私たちは七月の太陽のもと
美術館を出て冷い紅茶で渇きを癒そう
☆
手紙
電話のすぐあとで手紙が着いた
あなたは電話ではふざけていて
手紙では生真面目だった
〈サバンナに棲む鹿だったらよかったのに〉
唐突に手紙はそう結ばれた
あくる日の金曜日(気温三十一度C)
地下街の噴水のそばでぼくらは会った
あなたは白いハンドバックをくるくる廻し
ぼくはチャップリンの真似をし
それからふたりでピザを食べた
鹿のことは何ひとつ話さなかった
手紙でしか言えないことがある
そして口をつぐむしかない問いかけも
もし生きつづけようと思ったら
星々と靴ずれのまじりあうこの世で
☆☆☆
谷川俊太郎『手紙』より