星々。


水脈

逆らえぬ感情には従うがいい
それが束の間のものであろうとも
手をとらずにいられぬときには手をとり
目の前のひとの目の中に覗くがいい
哀しみと呼ぶことで一層深まるひとつの謎
生まれ落ちてからこのかたの日々のしこり
そのひとしか憶えていない黄昏の一刻の
闇に溶けこむ暗がりにうつるあなた自身を
一人がひとりでしかありえぬとしても
私たちの間にはふるえる網が張りめぐらされていて
魂はとらえられてもがく哀れな蝶
だからときとしてみつめあうしかないのだが
どんな行動も封じられているその瞬間に
かえって私たちは自由ではないのか
慰めの言葉ひとつ浮かんでこないからこそ
心はもっとも深い水脈へと流れこみ
いつか見知らぬ野に開く花の色に染まって
大気のぬくもりへと溶けあうだろう




二十行の木

1角ぐむもののいちいちに微風の指は触れて

2影のうちにこそあるいのちの発熱

3誰が教えたのか垂直に立つことを

4他と似るのを少しも恐れずに身を寄せあい

5大気のぬくもりへと滲み出る地の和毛

6名づけ得ぬ緑の諧調を目は喜んでたどる

7戦いよりも巨きなもののために号令を待つ

8決して煽動の効かぬ静かな群衆

9暗闇から立ち上がるのだいのちあるものは

10どんな鐘がきみたちを隠された水へ誘うのか

11林の中にいると心がからだになじんでくる

12空へ溶け入ろうとしてふるえているーー色

13その色の秘めている透明を探りつづける

14木々もまたかけがえのない経験を生きる

15一本一本の木にくちづけしてから死にたい

16これが楽譜ならその音楽を聴きとる耳は?

17鏡をもたないから立ち姿それぞれに美しく

18天を目指す力のなんというあどけなさ

19もうそれ以上美しくなってはいけない

20この地上で木とともに生きるこ恵み



あなた

あなたは私の好きなひと
あなたの着るものが変わって
いつか夏の来ているのを知った
老いた犬がものうげに私たちをみつめる午后
ひとっ子ひとりいない美術館へ
古いインドの細密画を見にいこう
菩提樹の下で抱き合う恋人たちはきっと
私たちと同じくらい幸福で不幸だ

あなたは私の好きなひと
死ぬまで私はあなたが好きだろう
愛とちがって好きということには
どんな誓いの言葉も要らないから
私たちは七月の太陽のもと
美術館を出て冷い紅茶で渇きを癒そう



手紙

電話のすぐあとで手紙が着いた
あなたは電話ではふざけていて
手紙では生真面目だった
〈サバンナに棲む鹿だったらよかったのに〉
唐突に手紙はそう結ばれた

あくる日の金曜日(気温三十一度C)
地下街の噴水のそばでぼくらは会った
あなたは白いハンドバックをくるくる廻し
ぼくはチャップリンの真似をし
それからふたりでピザを食べた
鹿のことは何ひとつ話さなかった
手紙でしか言えないことがある
そして口をつぐむしかない問いかけも
もし生きつづけようと思ったら
星々と靴ずれのまじりあうこの世で


☆☆☆

谷川俊太郎『手紙』より